4月28日20時2分、実父が亡くなりました。82歳でした。
前日の朝、今朝から父の具合が悪いから早く来て欲しいと母から電話がありました。
丁度その日は実家へ顔を出す約束をしていたので、母に頼まれた買い物をしていつもより早めに行くと、父が自分の部屋で寝ていました(両親は普段は別々の部屋で寝ています)
「どうしたの?」 と声をかけると 「下っ腹が苦しくてオシッコが上手く出ない」 と。
「お腹冷えたんじゃないの?」 と言うと 「首の下が痛いんだよ」 としきりに右手で首筋をさすっています。
父は胡坐をかいて座り床に置いた新聞を頭を下げて読むのが好きなので 「新聞の読みすぎじゃないの?」 と言って枕の位置を変えてあげたら扱いが雑だったらしく、「人を物みたいに扱って」 と文句言われました。
ごめん、介護の経験ないからさ、あたし。
少し気になったのは、右手と右足は頻繁に動かすのですが、左半身を殆ど動かさない事でした。
「何で左手動かさないの?」 と聞くと 「動くよ」 と答えるのですが、動かすのは右手ばかり。
「それは右でしょ、左は?」 と言うと面倒くさそうに唸ります。
トイレにも行けず既に布団はビショビショ。
お尻の下にビニールや新聞紙を挟んでも 「冷たい」 と言って自分ではずしてしまうので、洗面器にさせたり、バスタオルを挟んだりしていました。
この時、もしかして軽い脳梗塞でも起してるんじゃないかと感じました。
「医者へ行く?」 と聞くと 「何で?医者なんか行かない」 と答えます。
父は大の医者嫌いで、二年半前に胃潰瘍が破裂して意識不明となり緊急入院した時も、目覚めた後がそれはもう大変でした。
退院した後も、本当なら通院しなければいけないのをそのままにしていました。
別々の部屋と言っても襖1枚隔てるだけなので、隣の母の部屋で父の様子を見ながら過ごしました。
午後になり、ゲロゲロッと痰が絡むような音がしたのでティッシュを口元へ当てるとゲボゲボッと吐きました。
肺へ逆流すると大変なので慌てて身体を横向きにさせると、洗面器に緑色の胆汁を吐き出しました。
何で胆汁なんか吐くんだろう?と思いました。
胆石や腸閉塞が原因なら痛みで転げ回るはずだし、でもそんな様子はありません。
何度か医者へ行こうと言いましたが、父の断固拒否は変わりません。
話すのが面倒らしく言葉は出ませんが、右手を振り回したり私を叩いたりします。
右手を握って 「医者行く?行くならぎゅーってして」 と言うと握りません。
「じゃあこのままお家にいる?」 と言うと骨が折れるかと思うほど強くぎゅーっと握り返して来ます。
何度もこれを繰り返しました。こちらの声と言葉を理解していると感じました。
これほど明確な本人の意思がある以上、病院へ行くのは無理と考えてこのまま様子を見ようという事になりました。
その後、少量ですが二回ほど胆汁を吐き、そのまま小康状態が続いたので、翌日仕事がある私は夜に一旦帰宅する事にしました。
その前に、母が自分の部屋へ父を移動させたいと言うので二人で父を移動させました。
父は母の部屋が大好きで普段からよく来ていたし、父が体調を崩すといつも母が自分の部屋で看病して治していたので、今回もそうするつもりのようでした。
夜11時過ぎに実家へ電話を入れると父の様子は変わらずとの話だったので、そのまま母に頼みました。
翌朝8時過ぎに実家へ電話すると、夜中に二回ほど少量の胆汁を吐いたとの話でした。
このままでは衰弱するばかりだと思いながら 「少しずつ水を与えて」 と指示しました。
昼12時半、会社にいた私に母から緊急電話が入りました。
「お父さんが全然動かない、手も握り返さない、いくら起しても反応がない」 と。
銀座から実家のある江戸川区へ急ぎました。
私が着いた時、父の顔色は赤黒くなっていましたが、寝息を立てていました。
脈を取ってみるとほぼ正常、呼吸もそれほど苦しそうではありません。
まだ生命反応はありそうです。
急いで救急車を依頼しました。
救急隊員の方に以前都立墨東病院の救命救急センターに搬送された事、今回も墨東病院を希望する事を伝えました。
その時、父を診ていた隊員が別の隊員に 「どうも脳っぽいんですよね」 と言っているのが聞こえました。
そして 「ヘリを要請します」 と。
前回の胃潰瘍の時は墨東病院まで救急車で行きました。
夜中で道が空いているからという事もあったのでしょうが、ヘリコプターを使うとは尋常じゃありません。
やはり最初に私が感じたように脳梗塞とかそういう重篤な状態なのかも知れない。
この時、私は覚悟しました。
救急車に乗り江戸川河川敷のグラウンドに着くと東京消防庁航空隊の赤いヘリコプターが待機していました。
東消ヘリ5「つばめ」という名前のヘリでした。

プロペラの轟音と共に巻き上がるグラウンドの砂埃の中を、オレンジ色の制服を着た若い隊員がこちらへ向って歩いて来ました。
ドラマのワンシーンのようでした。不謹慎ですが 「カッコイイ!」 と素直に思いました。
オレンジの隊員に案内されヘリに乗り込みました。
私の前に二人のパイロット、私の横にもう一人の隊員、後ろに父のストレチャーと二人の隊員が乗るとヘリが静かに浮上しました。
会話ができないほどの轟音とは対照的にその飛行は殆ど振動がなく、ちょっと新幹線のような感じがしました。
私が乗った右側の席の眼下には新中川、中川、荒川と亀戸天神の赤い橋がはっきりと見えました。
父は若い頃から自由気ままで家族の事など全く考えず好きな事ばかりしている自分勝手な人でした。
一人っ子の私を可愛がる事もなく、遊びに連れて行ってもらった記憶も殆どありません。
その父が最後に私をこんなカッコイイヘリコプターに乗せてくれたんだと思いました。
眼下に見える全ての風景を目に焼き付けました。
その頃、母は自宅の庭から飛んで行くヘリを見送ったそうです。こちらもドラマのようです。
右にスカイツリーを見ながら左へ旋回すると墨東病院屋上の黄色いヘリポートが見えました。
ヘリポートの右側にはストレッチャーがあり、その両側にピンク色のジャンパーを着た救命センターのスタッフが6人、片膝ついて待機していました。
下降して行くヘリ。
激しい風が巻き起こり待機していたスタッフが風を避けようと腕で顔を覆いました。
まるで医療ドラマのようでした。
こうして、ドラマのような展開で救命救急センターへ収容された父でしたが、検査の結果、脳出血で既に手の施しようがないと担当医から伝えられました。
両親は以前から 「80歳も過ぎているから、どんな病気になっても今更手術はしない」 と話し合って決めていたので、そう担当医に伝えました。
気管切開や心臓マッサージなどの延命措置も不要と伝えました。
結局、私が病院を離れている間に父は逝ってしまい、私も母も最期に間に合いませんでした。
でも、殆ど脳死状態で入院したので、実質的には一晩寝ずに看病した母が最期を看取った形になりました。
母が話しかけると父はぽろっと涙をこぼしたそうです。多分、嬉しかったのだと思います。
両親は本当に毎日毎日ケンカしていました。
父が若い頃は今で言う ”モラハラ” と暴力が酷く、母にケガをさせたのも一度や二度ではありません。
しかし母もやられっぱなしではありません。 ”モラハラ返し(命名・私)” で対抗していました。
母が 「お父さんが憎い、殺してやりたい」 とあまり言うので 「お願いだから私を人殺しの娘にしないでね」 と言っていたほどです。
それでも離婚もせず53年も一緒にいたのだから、お互いにどこか惹かれ合っていたのでしょう。
機嫌が良い時は一緒に買い物に行ったり、部屋は別々でも常に行き来して互いの様子を把握していました。
父は認知症にもならず(倒れる前日までスーパー3軒ハシゴして買い回るほど元気だった)、介護もさせず(母が一日半看病しただけ)、医療費も最低限で(搬送から6時間で亡くなった)、家族に全く迷惑をかける事なく逝きました。
母は感情論で 「意識不明でも生きてて欲しかった」 と言いますが、それが現実となったらどれほど大変か、どれほど家族に負担がかかるのか、全く予想もつきません。
モラハラに暴力、転職に借金と様々な問題を抱え、家族をずっと泣かせ苦しめて来た父ですが、最後の最後に、最大で最高の 「家族孝行」 をしてくれたのだと思います。
そして本人も、好きなものを食べて好きなものを飲んで、最後まで自由に生きられて本望だったと思います(様々な制約を受けるから医者が嫌いだったのでしょう)
典型的な核家族だったのでこれまでに同居の身内が亡くなるという経験がなく、正直、まだ実感がわきません。
これから寂しくなるのかな・・・。

7