三国街道の とび坂峠 に話がもどります。
浦佐宿から堀之内宿への街道が、栃原峠越えに移ったのは、小出島経由が、ただ遠回りだけでなく、魚野川を二回越さねばならないことの解消に意味があった。川渡りと山越え、どちらかの選択は川渡りの不便・不安定をさけて、困苦でも山越えの安定道筋に有利をみたのである。近世に入って街道に求められる意味が変わってくる。参勤交代の大名行列や、人・物とも通行量が膨張すると、安定的な道筋が求められたのであろう。
ささ舟と の渡りにも同じ意味での変化がみえてくる。
八郎場とささ舟との間の川筋、魚野川は変化の激しい曲流をしている。
川口町模型地図:歴史民俗資料館 画像クリックで拡大
→→ 魚野川上流
堀之内方面
魚野川を何処で渡ればよいのか、ささ舟渡と 八郎場ならば、とび坂の峠越えの困苦はないのだが、川筋の現地をみると、曲流して川瀬は急である。
近世街道に求められた交通量の拡大と安定往来には、峠道を越さねばならなくとも和南津に入り、川の流れの安定した渡舟場を択ぶことが、より都合にかなうことになったと想定される。
とび坂峠と、和南津舟渡しがいつから記録にみえてくるのか、「 正保越後国絵図 」が初出となるのか三郎次は確かめていない。新道とされた栃原峠も、「 正保越後国絵図 」からのようである。
「ささ舟渡」が道筋の古記録に見いだせないのは、中世末から近世の初頭、三国街道の道筋が定着するまでの初期の舟渡し場だったからであろうか。
ここまで書き進んでみて、やはり何となく腑に落ちないつかえがある。
それは何かと、たち返ってまた、絵地図をみつめつづけねばならない。

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