再掲の写真です。(
4月10日 「 里山から望む ・・・」 )
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屈曲して流れる魚野川左岸が八郎場で、背後の丘陵地が とび坂峠 である。
対して右岸に、舌状にせり出る段丘の陰に、ささ舟渡 の集落が隠れている。
遠く三本の橋梁の向こうに霞むのは、左岸に和南津集落、右岸が三郎次の野田集落である。
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かって、魚野川の舟渡し場だったここに、近代交通では国道17号の橋がかかり、JR上越線と、上越新幹線が通っている。くわえて川の右岸、野田には関越自動車道が走っている。すべてが新潟(
日本海 )と東京を結んでいる、国土の横断道である。
一見しずかな山村のたたずまいを貫いて走る近代交通の路線は、すべて江戸時代の三国街道を引きついだものと言ってよいであろう。「 ささ舟と 」の渡しであれ、また「 和南津舟渡し 」にしても、当時にあっては この写真の三本の橋梁と同じ役割を課せられていたことになる。
だが、こうしてふるさとの里山にのぼって、見下ろすムラのたたずまいを
まほろば と感じたとき、この静かなムラの日常と、東京への一極集中の近代交通の網目が、どうしても不釣合いにみえてしまうことは何としたことか。これが現代のあたりまえの風景なのにと、自分に言い聞かせることになる。
ひるがえって、三国街道が成立するころの四百年昔、このムラの日常はどうだったであろうか。関東往還の動脈とはべつに、内なる立場(
地域の立場)からも、この魚野川渡りを見つめねばならないのである。

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