和南津は、「 正保越後国絵図 」に
154石余の村として示されている。ほほ同じころの高帳(
「 越州四郡信州逆木郷高帳 」)には
343石となっていた。これは、魚野川を挟んだ両岸の地域が一つ村として括られたからで、中山・野田・ささ舟渡・竹田・牛ヶ首などの、中山村とされる地域をもふくんだ343石であった。
寛文七年(1,667)に、これまで帳一本だったものを、帳二本に分かつとの記録が残されている。つまり分村があった。さすれば、この地域は川を挟んでも、ひとつの圏域の成立が早くにあったことが知れる。とくに野田の地域の成立に、和南津とのかかわりの濃かっ経緯が、天和二年(1,682)「 中山村検地帳 」から読みとれるのである。
和南津村は、天正8年(1,580)の上杉景勝状で、内ヶ巻城の田中氏に安堵されている。中山村は、このときの和南津村に含まれていたかは不明であるが、ここの臨江庵(
林興庵 )は、景勝とのかかわりの寺記をつたえている。
両村はいずれも中世からの古村であったから、この地域をむすぶ舟渡りも中世を引きついでいたことになろう。
(
魚野川を間にして展開した地域、和南津村と中山村 )

川を挟んだ古くからの生活圏を認めるならば、魚野川の川渡り通舟は、三国街道以前から、地域の村渡しとしての必要が日常的には大きかったことになる。
しかし、八郎場と ささ舟渡 の渡りでは、この地域のはずれに位置しているので、340石の村の暮らしを括る川渡しとはなりえない立地環境にあった。和南津
←→野田の舟渡し場は、中世以来の地域の村渡し場の重要が高かったことになる。
関東往還道が、この村渡しの上に重なってきたのである。

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