中世の関東往還道が関越国境の山をこえて、上田(
六日町)地域に入って春日山に結ぶには、幾通りかのルートがあった。堀之内の地域も、そのルートの上に位置していた。
江戸に幕府がおかれた近世になると、領国支配の道筋に、上田から長岡、さらに佐渡への往還筋の整備が進められてゆく。この道筋は、魚野川が信濃川に結んで、越後平野部に延びる船道とも併行して機能する重要な近世街道となっていた。歴史的、地理的な事情を勘案すると、この街道は上田と堀之内、そして長岡を結んで成立したものと考えられる。中世から近世にかけて、堀之内の歴史的、地理的な立場に揺るぎはなかったのである。
川口地域は、近世街道に位置づけられて浮上してくる。これは堀之内と長岡を結ぶ中継地としての存在で、いわば二次的な立場になる。
街道が川口地域を通過するにも、幾つか変転の事情は読みとれて、「とび坂峠」越えと、「和南津舟渡り場」に定着するには、いくつかの経緯を経てからであろう。
慶長14・15年の三国峠の整備と三宿の設置のことがあって、おくれて栃原峠の開削のあったことが知られている。正保2年の「越後国絵図」には、栃原峠も、とび坂峠も記されているから、それ以前の整備と知ることになる。
慶長年間の三国峠越えの整備に、幕府代官伊奈忠次のかかわりが知られている。栃原峠の開削には、高田藩松平光長家の代官大門与兵衛と伝えられている。とび坂峠についての事情をしめす文書は見つかっていないが、やはり高田藩の関与が想定される。
和南津の喜多村家には、高田藩松平家にかかわる伝承が伝えられ、また喜多村新兵衛の名は、高田藩光長家の老臣・岡島壱岐の代官として、広瀬郷の古文書に見えてくる(
寛永年間)。魚沼が高田藩光長家の領地となって間もなく、吉水・田川・下島・新道島・和南津などが岡島壱岐の知行所となっていたことがあるから、ここにも喜多村新兵衛のかかわりはあったのかも知れない。
19年4月27日前掲「越後国絵図」正保二年
中山・林興庵の過去帳にも新兵衛のことは見いだされ、和南津村天和検地帳と古地図(
寛政年間)にも見えてくる。この新兵衛の出自を確かめることはできないが、三国街道の難所となる とび坂峠と和南津舟渡し場 の整備に、栃原峠のように高田藩の関与を考えるなら、ここにも新兵衛のつながりを想起してしまう。和南津村庄屋として、和南津渡し場を支配して権勢を持ったのが喜多村家であった。
八郎場のムラの記憶にある「とび殿」も喜多村家につながっていた。峠の「とび殿」とは、どのような存在であったのか。
とび坂・とび殿と天道大日如来のこと、そして大日堂の堂守家に伝わった
観音さまの話をあわせ考えると、そこに
中世の修験の痕跡をみてしまう。峠道が三国街道に組み込まれて整備されるとき、そこに拠って権勢を持った存在の修験者「とび殿」は、今度は峠をおりて「村殿」となったのか、魚野川渡しを支配する立場を得て、高田藩の家臣団に組み込まれたのかと、三郎次の夢想だけは際限なく広がってしまう。
だが、あの峠の坂のことは和南津や八郎場では「
そでん坂」と呼んでいた。三郎次も子どものころから、「そでん坂」とばかりに思ってきたのであった。とび殿 の「
とび坂」だけでなく、「
そでん坂」のことも解かないと、峠の神は道の塞ぎを解かないであろうか。

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