白鳥信仰を止め処なく追い求めるのが三郎次の本意ではない。ドウの洲の鶴白鳥の意味を知りたいばかりのことである。
古事記に伝えて、罠網で白鳥を捉えた和奈美之水門の意味も知りたいのであった。天皇に献上されるこの白鳥は、尋常な鳥類でなく、神聖な霊鳥としての意味を持っていたことは、「出雲国造神賀詞」に「白鵠の生御調(
いきみつき)の玩物(
もてあそびもの)」 と称えられ白鳥と同じことである。
神聖な霊鳥を捉えることは、それ自体が神事祭祀に相違いなく、やたらと捕食などが許される感情にはなかったはずである。白鳥献納の儀礼は、古代から中世・近世にと受け継がれながら、その神儀は失われていたようである。鶴白鳥を食するようになったことも、ただ美味・珍味の故だけでなく、神霊を身につける作法が基になっていたに違いない。
鶴白鳥の神性を尊ぶ心情は、やたらな捕獲を慎むことであったのが、やがて信仰の衰微か変化なのか、特別の神事でのみ許されるはずの霊鳥の捕獲を、特権的な立場の者だけが独占する恣意のなかに取り込まれるようになっていた。
中山村口留番所高札に鶴白鳥禁制の

定めが示されるようになるのは、神聖な霊鳥としての白鳥が、やがて領主への献上品として支配権力にかかる特別の扱いを意識するように変化したのではないかと考えるのです。
魚野川の初鮭(
一番鮭)が、領主への献上品として命じられていたことは、『北越雪譜』 などの記述でよく知られている。『堀之内町史』 にも、初鮭がとれたら直ちに堀秀治の春日山城へとどけることを命じた堀直竒のことが述べられている。堀秀治、堀直竒は江戸時代初頭の越後魚沼にかかわった大名・武将である。春日山の堀秀治は、これをさらに江戸幕府に献上したと伝えられている。
収穫物の初物は神に捧げるものとの民俗事例はよく知られている。畑の茄子であれ胡瓜であれ、初物が採れたらまず神棚に供えるのを慣わしとした記憶は、まだ失われていないであろう。初鮭献上はこの神の立場が、時の支配権力者にとって代わられたのであった。
ドウの洲の番所高札にみえた鶴白鳥禁制の背後に、日本の古代信仰とその衰微と変化をみてしまう三郎次の夢想である。
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