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5月7日、長岡の麦田 )

白い鳥のことにかまけて、今年の稲の話題からは、すっかりはなれてしまった。
先日、長岡に出たときの様子、麦の田んぼである。川口や堀之内ではお目にかかれない田んぼの様子であろう。
この麦のことも、いつか取り上げねばならない魚沼の大事なのだが、今日のこれは宿題に残すことになる。

5月10日前には、田植えをしない指導なのか、申し合わせ
なのか。田んぼには、こんな幟旗もたっていたが、田植えは
だいぶ進んでいた。
たしかこの日には、和南津でも田植えがはじまっていた。
続いて野田でも田植えとなり、今日10日には野田の里田の
田植えは、ほぼ終わってしまったようである。
堀之内ではどうか、まだ足を運んでいない。
北国の稲作は、早く田植することの環境獲得を目指したのが、千年の稲作の歴史であった。それが、ここで田植期を遅らせれ方向に転換する大事となっている。まさに稲作の歴史の大転換である。ことは単純ではない。ふまえるべきことは多々あるのだが、ただ遅く植えることだけの理解のようである。
近年は稲の苗を自分で育てる農家が少なくなっている。
農協委託の苗が多くなっている。その農協の苗配布は12日からとなっていた。
早めに田植えを済ます農家は、自分で
苗を起こす人たちである。
稲苗を自分で起こさないと、稲の命へのかかわり、理解が、どうしても薄くなるのではないかと思うのです。
三郎次の苗起しは、毎年が新たな体験・実験である。
今年も緑化期前にに大変があった。育苗箱に多くのカビが発生したのである。

特別栽培の稲苗であるから、種子消毒は
温湯浸法で、化学農薬を使用しないのである。
これまで育苗箱のカビは病気であるから、これは大変と、心配になる。

種籾にもカビが発生している。
今年は、温湯浸法に生物農薬を併用している。
農薬メーカーに写真をメールして、診断を求めたところ、この黄色カビが生物農薬の効き目であって、正しく効果がでているとの返事をいだいた。
戦後の10年くらい、三郎次が田んぼの手伝いながら、稲作にかかわり始めたころには、農薬などの考え方はなかった。それでも稲の病気はあった。祖父は(
初代三郎次 )は 「アカが付く」 といってイモチ病をおそれていた。赤さび色の病斑がでる稲熱病のことである。
病害防除は、耕種的方法がもっぱらとなるわけであるが、種子消毒に温湯浸法のことはすでに知られた技術となっていた。
化学消毒薬のウスプルン(
水銀製剤 )は、戦後間もない昭和23年に登録された農薬のようであるが、三郎次周辺でも、広く使用されるようになったのは昭和30年代からであった。つまりコシヒカリが魚沼に入るころからであった。昭和40年代になると、水銀剤の有毒性から、使用が禁止されている。
今日の機械植え稲作と違って、手植え時代の稲育苗は、水田育苗であった。水苗代の自然育苗は、病害で大きな障害は少なかったので、種子消毒などのことにはあまり重要視されなかった気配がある。
昭和40年代、田植機稲作となると、稚苗箱育苗となって、厳密な育苗管理が求められて、種子消毒の重要性が増した。それで、水銀剤が禁止されたのを受けて、さまざまな種子消毒剤が開発されたのであるが、それは化学農薬であった。
種子消毒の生物農薬は、天然の有用微生物(
菌)の力をかりて、水稲の病害(
いもち病、ばか苗病、苗立枯細菌病、もみ枯細菌病、褐条病 )を抑えるのである。この有用菌は、種もみ表面に付着・増殖して、病原菌の増殖・侵入を防ぐというもので、化学農薬のような使用回数に制限がなく、
減農薬の特別栽培米には農薬成分としてカウントされない自然成分である。

私たちの生命を養う糧となる稲米は、やはり植物としての生命あるもの。その生命を育む大地・環境・自然と共にあるのが稲作農業と考えるなら、その母体となる大地・環境・自然に優しい農業が求められることは当然です。
自然生物農薬の登場はまだ緒に就いたばかりである。昭和30年代から大きく伸びた化学農薬絶対の管理農業から、大地・環境・自然に優しくなじむ農業への視点が求められる時代へと、変わっていることを感じた春となった。
こうした時代の中で、田植の時期を遅くする耕種的意味が問われるのであって、魚沼のコシヒカリが、ただ単に食味にだけ意味のある栽培法の志向であってよいのかと、危惧を覚えるものです。
★ えちご魚沼、川口町です、三郎次。
魚沼産コシヒカリ < 三郎次の米 >
魚沼産コシヒカリ < 減農薬・特別栽培米 > 新潟県認証
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