高い能率の田植機の普及で、田植が始まると、里田はすぐ一面の早苗となる。
田植中盤の12日、所用で南魚沼まで出かけてきた。

田植前線は小出辺りまでで、その先の浦佐からは代掻きの様子であった。国道を走って、魚野川の向こうに目を移すと、まだ峨々とした山並みは雪をいただいている。
転じて反対側の山並みは、午後の陽が傾きかけて、低くなだらかな稜線を映している。

魚野川が貫流しているこの沖積盆地は、右岸と左岸では、背後の山並みがきわめて対照的な違いをしめしているのだ。
右岸の山は越後山脈で、左岸は魚沼丘陵である。
. ←↓ 越後山脈
『 堀之内町史 』では、 この沖積盆地を「 六日町盆地 」と述べている。
← 魚野川 ← 魚沼丘陵 ← 信濃川
魚野川中流域の盆地北部は魚沼市であるが、大部分を南魚沼郡域が占めているからか。
(↑ クリックで拡大 ) ( 企画:農業土木研究会、発行:農林水産省北陸農政局・新潟県農地部、「水と土と農・シリーズ その1」(1997年)による )この魚野川流域の盆地には、6・7世紀の古墳の存在が知られている。その大分は六日町地域を中心として散在する群集墳として把握されて、魚野川左岸の低平な魚沼丘陵の麓に集中するのであった。ただ例外として、離れた堀之内に根小屋の古林古墳がある。
魚野川流域の古墳群の存在を、魚野川の左岸・右岸の区別で見るなら、根小屋の古墳だけが右岸となって例外になるのだが、見方を変えて、これら古墳群は、なだらかな山容の魚沼丘陵山地の麓に位置していることを確かめるなら、根小屋の古墳の立地も例外でなく、魚沼丘陵に抱かれていると理解できることになる。
『 堀之内町史 』には、魚野川流域古墳の意味を大和の中央勢力の伸展との関係で説いている。
. . . . . . . .

1