今日の日曜日、よいお天気に恵まれた。
雪山を仰ぎみる南魚沼の田んぼでも、この日曜日で、田植は大方となったのではあるまいか。
三郎次は、少しばかりの田んぼの田植をした。一週間ほど前に田植の済んだ近所の稲は、もう立ち上がっている。
前述の魚沼の古墳のことから続きである。
魚野川に沿う魚沼丘陵の古墳群を、古代の大和政権の勢力進展とのかかわりで理解している『 堀之内町史 』の記述は、至極当然のことであろう。三郎次は考古学を学んだ者でないから、その辺りのことは「 町史 」の記述に従うことなにる。それによると、越後の古墳は、前期のものは新潟平野の周辺部の丘陵地 (
角田・弥彦山麓と三条市北部など) であって、中期の後半から後期には魚野川流域と高田平野周辺に古墳が造営されている。それは五世紀後半からと「 町史 」にある。このことは西日本からの文化や政治勢力の進展に、古代越後のなかで魚野川流域がどのような立場にあったのかと、考察するに大切な手がかりとなっている。
だが、田んぼの中からものを思うことが習性となってしまった三郎次だから、古代の中央政権が魚沼への進出のことよりも、古代の稲作がこの地域の立地にどのようにかかわったであろかと、そちらの方に関心が向くことになる。
古墳時代は、稲作文化をともなった弥生時代に次ぐ時代であるから、当然に稲作のことを気にしなければならない。「 町史 」では、魚沼地方の弥生時代遺跡が少ないこと、新潟県内の水田遺跡の乏しいことをあげている。それでも、堀之内地域での古代稲作の可能性に触れて、魚野川とか田河川の沖積地・氾濫原に水田跡の埋没の可能性を指摘している。
続く
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