『 堀之内町史 』では、魚野川とか田河川の沖積地・氾濫原に古代の水田跡埋没の可能性を指摘している。
魚沼の稲作を古代にまでさかのぼって考えることは、きわめて困難と思う。
雪による遅い春、そして短い夏で、早い秋冷。秋の収穫処理が済まないのに、雪を迎えてしまう話は近代でも語り聞いている。標高のやや高いところでは、近年でも冷害青立ちで稲の収穫が不可となった事例を承知している。
日本の西南暖地から東進北上する稲作には、稲が北の気候に適合する性質獲得がまず必要だったのである。
気候と稲作のことはひとまず置いて、ここでは魚沼の水田立地に触れてみたい。
三郎次に身近なところ、川口町での事例で考えてみる。
『 川口町史 』 編纂資料からみると、河川の氾濫原の水田開発は中世末からであって、今日の魚野川、信濃川添いに見られる水田の開発は近世の250年を通じてのことであった。また川口地域に多い河岸段丘面の開発も同じく近世のものであった。
河川の氾濫原では、洪水の被害が開発を押しとどめていたのであるが、大きな問題は水利の便であった。
近世の新田開発の記録文書をみると、それは何よりも水利の開発であった。水利なくして水田は成り立たないのであるから当然のことである。魚野川や信濃川の大川に添う土地は、水の便に有利と考えやすいのだが、実際は別で、ここに川の水を、安定して引き込むには上流から長い水路を設ける必要があって、開発は後れていたのである。
川口地域で、中世末から引き継いだ水田は、今日の水田面積の約 1/5 弱である。その大部分が、いわゆる山田であった。山の湧き水を曳く小さな田んぼ、あるいは 沢 ≠ニ称される小さな谷川の水を、小規模な水路を設けて利用していたのであるから、平坦地の広がりに水田が起こされるのは、近世江戸時代からである。
川口での中世水田から、近世水田への立地。
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川口男山やな場の裏を流れて、魚野川に注ぎ入る相川川は、魚沼丘陵を刻んで流れ出る小河川である。この谷川に添った流域の小規模水田が、手じかに開発できる中世水田の立地であった。
中世末から近世初頭にかけて、頭出する組織力によって、ようやくこの谷川の水を曳いての、魚野川河川敷 (氾濫原) の開発が進むことになる。ここの相川川流末の魚野川辺の田んぼが、川口の近世水田の原点となっていた。
★ えちご魚沼、川口町です、三郎次。
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