三郎次の川口地域の事例で見ると、江戸時代以前には、大きな水路工事による田んぼはなかったようである。大掛かりな水利開発による新田は、江戸時代からであった。
中世の戦国大名の領国経営では、武田信玄の信玄堤などのような、組織的な水利事業の例も知られているが、魚沼ではどうだったであろうか。川口にその事例をみることはない。
中世からさかのぼって、さらに古代の稲作立地については、考古学の知見がないので、近世・中世の例から推定するだけになる。
弥生時代の水田は、潅漑が容易な平野部低湿地につくられたとされているが、そのころに魚沼の稲作が確かめられるのか、三郎次には分からない。
魚野川沿いの平野部は巾の狭い谷底平野であるから、前述のごとく河川氾濫原であり、なお河川からの取水にも困難があった。おそらくここでの弥生稲作は難しかったと想定される。
つづく古墳時代になると、魚野川流域では、その流域平野が後背山陵の麓の扇状地形に古墳が造営されることになる。
現地を歩いたのではなく、地図の上での知見であるが、魚沼丘陵からは幾筋かの小河川が流れ出て扇状地を形成している。そして複数の扇状地が横並びに連なっているようである(
合流扇状地 )。
ここに古墳を造営する勢力集団は、魚沼丘陵の 沢 °リの谷口に水田を開くことは容易であったと想像される。さらにその集団組織や土木技能は、谷沢の水を扇状地に引く土木工事も可能としていたに違いない。
換言するなら、扇状地の発達する地形であったから、稲作を経済基盤とする集団組織がここに発展したことと理解できよう。
魚野川中流地域の古墳群の成立を、水田稲作とのかかわりで考えて、翻ってみるなら、魚野川下流域の堀之内・川口地域では、谷筋河川と扇状地地形の少ないことが、古代から中世の稲作基盤の成立を遅らせていたのではないかと推察することになる。
ここは魚野川が、魚沼丘陵を横断する流れとなって、河岸段丘の地形で、扇状地の発達を見なかったのである。
南魚沼とは違った流域環境にある ドウの洲 ≠フ村落基盤(
水田立地 )の成り立ちを、古代の古墳文化の受け皿となった魚野川中流域の水田立地との比較で考えることに興味が向くのです。
→ ( 参照 : 米指向強まった古墳時代 )
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