行く先をさして確かめもせず同行した、仲間との旅行であった。着いたところが白川郷だったぐらいのことで、事前学習・予備知識のないところだから、勝手な思い込みだけが深くなる。せめてここの稲作が江戸時代からなのか、それ以降のことなのかぐらいは知っていたらよかったのにと思うのであった。
昼宿の 茶屋 忠兵衛 ≠ナ、帰りがけに見つけたのが、壁に無造作に張られていた古文書である。仲間に遅れることもならないので、読む間もなくデジカメだけを向けてきた。
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( 以下、同様 )
「 田畑反別小前帳 」は、江戸時代を思わせる書付であるが、「 明治十八年 」とある。明治政府は、明治6年の地租改正と、その後の地券発行などと、土地制度を改めながら、明治17年に土地台帳制度をもうけた。この「 田畑反別小前帳 」明治18年は、これを受けての帳簿だったのかも知れないが、綴帖を解いてバラバラにしているので内容が読みとれないが、畑と宅地だけである。

この文書は、「 萬延元年 」(
1860年)とあって、江戸時代末期である。これも田畑小前帳で、「 御領・寺領 荻町村 」とあるから幕末にはここは天領だったのか。
村役人の連名に、「 組頭 忠兵衛 」が読めるから、ここの昼宿 忠兵衛 のことかと想像してみる。
さてデジカメに残っていたのはこれだけの史料であるから、ここから幕末80戸の白川郷荻町村を見渡すことはできないのであるが、この文書、明治18年と萬延元年のなかに、いずれも 田 ≠フ存在が見えてこないのである。

ここでの
右寄 ≠フ 高五斗八升八合は、列記した一筆明細の合計であろう。零細な持高の百姓の様子が見えてくる。畑1反4畝と、焼畑7畝である。
やはり焼畑の村であったのかと、目を凝らすことになる。
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ここの焼畑のことはかねて想定していたことである。

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