前掲文書の拡大である。
古文書などを見つめるのは辛気なこと、読めない字もあって余計苦闘する。
でもわずかな時間で通り過ぎてしまった白川郷のことであるから、デジカメに残っていたものだけを頼りに書き込むのです。
焼畑のことは、
川口・堀之内で多少の聞きかじりはあるが、その確かな痕跡を知っているわけでないので、想像だけが先行していた。
文書記録の上でも、三郎次周辺に焼畑のことは見ていないので、白川郷のこの文書との出会いに、いささか興奮である。
前掲明治18年文書に見出せる百姓(
家 )は、畑地2反6畝余、屋敷地29坪のささやかな構えである。この屋敷坪では、大きな合掌造り茅葺屋はいささか無理かなと思えるので、普通の萱葺屋を想像してしまう。畑地2反6畝余で支えられる生活も大きなものに考えられないから、白川郷で知られる大家族は、ここの百姓(
家 )に当てはまらないと推定することになる。
上の写真、
萬延元年の焼畑の文書の百姓も畑地だけの百姓である。反別2反1畝余の所持地で高5斗8升余は、普通に考えれば零細百姓(
家)である。
文書にみえる畑地の位つけは「下々畑」で、石盛り(
斗代:生産力評価の数値)は三ッになっている。(
反別・石高を分析計算すると、平均石盛3.5となって、他にも石盛四ッの畑地所持のことが判明する)
焼畑 ≠V畝は石盛一ッで、下々畑の1/3に評価していることが分かる。
この位つけ石盛を、三郎次の魚沼郡中山村でみると(
天和二年検地帳)、下畑:四ッ、下々畑:三ッで、数値評価 斗代が同じことが分かる。
中山村では、下々畑 の下に
山畑・河原畑 ≠ェあって、石盛二ッとされているが、 焼畑 ≠フ記録はないのである。しかも中山村では、石盛二ッと低位の山畑が、畑地反別の凡そ半分を占めていることに気づくのである。
わずかに垣間見ただけの白川郷荻町村の文書であが、焼畑があっても、山畑がない。三郎次の中山村とのこの違いが疑問に浮かぶのである。
飛騨の山中の険しさは、なだらかな魚沼丘陵と違って、村の存在を異なる形にしているのか。

城山の展望台から下りる時、車の窓の外に見たのは、合掌造りの大屋根の萱葺きではなかった。昭和30年代ころまで、川口でも見られた萱葺きの造りである。
この家では、広く喧伝されているような大家族がおさまる様子はないとみてとれる。文書でみた屋敷地29坪の家とは、このような造りのことであったのであろうか。畑地2反余りと焼畑を営む村の生活は、このような家のものだったのかと思い浮かべることになる。
この家の周囲には栃の木が育っていた。焼畑のくらしは、稗・粟と栃の実を連想されて、先年に訪れた越後魚沼・秋山郷のことが思い出された。
野外博物館で、案内の方から ナギ畑 ≠ニ伺ったことを思い出した。山峡のくらしの話に立ち戻ろう。

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