白川郷の野外博物館、ほんのわずかな時間であったが、案内の方がこだわって説明されたバンドリ 蓑のことを、すこし怪訝な思いで聞いてきた。
その怪訝な思いが、帰ってから少し書物などで調べをすることになる。
白川郷の荘川村、享保15年の書き立てで、葛屋と呼ばれる萱葺きの建物とあるから、合掌造りなどとの言い習わしは外側からの言い分で、本来は「くずや」と称していたと理解する。魚沼の野田・中山にも残っていた萱葺屋根は、やはり「くずや」とか「くずやね」と呼んでいた。萱葺きに共通の感覚のあったことになるが、なぜ萱葺きが「くず」になっていたのかわからないまま、これも心に留め置くことにする。
その村の天保14年「余業取調書」には、「蚕飼稼いたし」とか「糸に挽立売払申候」と、また「女は冬之内布を織立」などとあって、ここには養蚕が魚沼の川口近辺よりも早くから盛んになっていことがわかる。また「杣日雇稼」などとある書込みも、川口近辺の村書上には見えないことである。
飛騨の山峡の村をもうすこし確かめてみよう。
訪れた白川郷旧荻町村は、元禄検地帳131石、天保郷帳217石とある(
角川地名辞典)。ほぼ同時期、宇賀地の新道島村115石、下新田村114石(
天和検地帳)よりもやや大きめの村高である。これだけの規模に水田稲作がないとするのは考えにくいこと。天保期の217石は、1.6倍の膨張である。ここにも背景に水田開発が思いうかぶが、史料にふれられない三郎次には、推定考察にとどまることに過ぎない。昭和期に入って(
戦前)、約15町歩の開田と伝えている。この近代の水田開発は、江戸時代の石高に換算すると、凡そ120〜130石程度に当たろう。
焼畑の村とばかり思い込んでいたのに、しっかりと稲を作ってきた村であった。
城山から見下ろした稲の風景が尤もなことと思い返される。
「斐太後風土記」(
明治初年の成立)にしめされる荻町村の物産は、米105石とあって、村高の約半分ほどの産出となっている。
つづいて稗・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・蕎麦とあって、さらに桑15,000貫と
麻・楮がならぶ。オャと思ったのが稲筵120束とバンドリ160領である。
藁を材料とする稲筵とバンドリが物産として挙げられていた。稗粟麦大豆に、麻楮繭を列挙する村の構造は、決して土地利用の田んぼの比重だけが高いはずもなく、高い標高の地に、懸命には拓いた稲田からは、米を収穫するだけでなく藁の利用が大切だったのである。
稲藁はあらゆる暮らしの日常に、細工加工されたものが必要となっていた。それだけでなく、藁の細工加工品は交易の物産としても家々と村を支えていた。
桑15,000貫とならんで挙げられていた大繭220貫・小繭750貫は、おそらく山桑の利用に始まった養蚕が、山村に意味ある産業となっていたのである。
合掌造りの村を、二階三階と重なる大きな建造家屋で捉えるのか、そこに住まう大家族の制度を見るのか、外からの覗き見は大方そのあたりに向いている。
蚕を飼って糸を挽く。麻や楮を調え、布も織る。藁の素材は稲筵を織り、バンドリ蓑を編む。山野の植生や田畑の産物を素材にしてた素朴な加工作業の営みに、大家と大家族が必要な産業構造だったのかと、いく様もの捉えで見ることができるのである。
案内の方が説いた蚕とバンドリ、そして稲作文化のことが少しづつ解りかけたようである。ただ稲を作り、米を穫るだけの稲作文化ではない。稲がさまざまな場面にかかわって、暮らしの営みが完結している。そして稲米の充足をもとめる心情が稲作文化と、白川郷の語りを聴いたのである。
焼畑の村であったからこそ、稲米の充足をもとめる心情がいっそう切であったと、三郎次は聴いた。焼畑の村だからこそ、稲作の文化が語られるのだと受け留めたのである。

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