前回、朱鷺の書込みで
スバルさんからコメントをいただいていた。宇賀地はドウの洲で、かって朱鷺が舞っていたことは、間違いないようである。
そのドウの島、新道島村を『 堀之内町史 』などの拾い読みで、時間軸に追うとまず中世の新道島城が、やや?ながら載っている。魚野川右岸の山上である。
正保2年
「越後国絵図」には、「とび坂」峠の下に「 七十二石 新藤嶋村 」が記されて、左岸に位置している。
正保4年(1647)の、中山村との山論も右岸となる。万治元年(1658)、寛文10年(1670)と、高田藩松平光長時代の検地が記録されている。これは右岸か左岸かは、検地帳などの古記録に確かめないと、三郎次には未詳となる。
貞享元年(1684)には、「新藤嶋村」は高百拾五石九斗余として
川口組村々の高帳にに見えている。
郷蔵では、元禄・宝永(1700
年前後)期の田川蔵組に、新道島村が属していたとあるから、村の位置は左岸に考えられる。しかし、新道島が川口組を離れるのは享保(1720
年頃)年間とも伝えられるから、川口組のまま、郷蔵は田川蔵に属すなどと、実態としては川口組をはなれて、早くから宇賀地郷村々とのかかわりを深めていたのであろうか。
このように新道島村を追っても、乏しい史料では、左岸か右岸かばかりでなく、村の暮らしの実態についてもなかなか見えてこない。
かってドウの洲の空に舞っていた朱鷺、その空の高みから朱鷺の目では、新道島村は何と映るのであろうかと思案することになる。下島村や下新田村、あるいは竜光村と隣り合う村々と見比べるならばと考えることになります。

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