新道島の村石高を確かめたり、隣村との土地利用の争いごとなどの事件を見つけても、村の実態はなかなか分からない。
ここは飛翔に広がりのある朱鷺の、空の高みからの目で、周辺村々との比較で新道島村を見つめようと、村高推移や、田畑のことで資料を整理してみる。
(川口地域・三郎次近在と、堀之内地域・宇賀地郷など)
(宝暦5年、村々石高と田畑反別は「越後国魚沼郡村々様子大概書」(『 小千谷市史 史料集 』) による)
この地域の古い村高が一覧できるのは、
「正保越後国絵図」(
1,645年)である。
江戸時代初期は、戦国争乱が収まったとは云え、村は上杉氏支配から新たな領主の支配に変わるなどの混乱の世相なかにおかれていた。時代が落ち着きを取り戻すと、村は開発への歩みを着実に進めることになる。
正保から宝暦までの100年間の村の発展を上の表に見ることにする。
新道島村の古い村高は72石であった。近隣諸村と比べると、徳田・吉水・明神などと同様の小さな村である。「とび坂」峠下の狭い地所の村であるから、やはりそうかと云う感じになる。ところが100年後の江戸時代中期(
宝暦5:1,755年)には、116石の村規模となっていた。
正保の村高を基準に、江戸時代前期にどれだけ村の進展があったのか。それは村々の置かれた歴史的な立場や、立地の環境条件などで、大きく相違することになるのだが、この地域ではおおむね正保村高の1.5〜6倍
(正保村高対比は、表には赤字表示) が、中期の村高となっている。
新道島村の116石は、正保村高の1.6倍に当たるから、ほぼ周辺の村々並みである。しかし崖下の
あの狭い村地所のどこに、こうした村高の進展を得たのかと考えざるをえない。
新道島村の田7町歩・畑8町歩、合わせて15町歩は、「とび坂」峠下の魚野川ベリの狭い地所にはおさまりきれない面積である。魚野川右岸にも村の広がりを求めたことを、どうしても想定しなければならないことになる。
正保年間の中山村との山論争が右岸であり、万治元年(1658)、寛文10年(1670)の松平光長時代の検地も右岸のことかと疑われてくる。この村は左岸に位置しても、右岸に村の広がりを求めて開発をすすめ、ついに右岸に村を移したのであろうか。
現 新道島 遠望、中山まほろばの丘( さんご山 )から。
集落背後の白い構築物は高速自動車道
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もう一つ、新道島村で特徴的なことは田畑の面積で、畑地が多いことである。
(表のブルー欄、赤文字)。
川口地域村々で、天和二年検地帳での田畑比を確かめてみると、村の立地環境にもよるが、おおむね6:4で、田地の広いのが通例であった。上表の宇賀地郷村々の場合に見ても、およその傾向は通じている。そのなかで、新道島・大石・下倉は別のかたちになっている。田畑比が逆となる村は個々に事情があるのだろうから、それを読み取ることは、その村の理解に必要となろう。

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