魚沼の関矢孫左衛門は、幕末から明治維新にわたって草莽の志士と目されて、三餘堂門人のうちでも行動力においては出頭だったようである。後にふれることがあるやもしれないが、いまここでそれについて多くは述べないことにする。
明治維新後の新しい時代に対応として、関矢は長岡の三島億二郎らとともに銀行設立に尽くし(
六十九銀行、後の北越銀行)、また三島と大橋一蔵らを同士として北越殖民社を設立し、北海道開拓にのりだしたのはよく知られていること。
三郎次幼時から、「 並柳の旦那様 」として語られて関矢孫左衛門のことを聞き知っていたのは、中山のマキ親本家が並柳関矢家と姻戚関係にあったからである。北海道開拓・北越殖民社のことは、わりと身近な話題として聞くことになっていた。
だが、さらに関矢孫左衛門は「協立私学ヲ興スヘキノ論」をとなえて、大橋一蔵などと奔走した明訓学校創立のことは聞くことがなく、後に知ったことである。
明治16年3月3日、弥彦村に開校の明訓学校は、修業年限5ヶ年、国学・漢学・英学・数学とともに日本語格・詩歌学・翻訳書を基本として、これに法律が加わったとされている。
新しい時代の当然に洋学が組み込まれていても、この学校の置かれたところが越後一ノ宮所在の弥彦であったこと、それに関矢・大橋の気風からして、たぶんに江戸後期の国学への傾斜が感じられるであろう。田島利三郎が、ここに学んだのは神官宮司の子弟としてであった。
後に皇典講究所に進んだ田島利三郎が、さらに沖縄に渡って、琉球の古典「おもろそうし」に触れてゆくことにも、江戸後期の国学、越後の草莽の学風の伏流を感じようとするのは、思い過ごしとなろうか。
⇒ 田島利三郎
新潟県北魚沼郡川口町 越後川口 えちご川口 川口町 歴史 地理 物語 風物 魚沼産コシヒカリ . . . . . . . .

2