大橋一蔵と関矢孫左衛門らが、弥彦に創立した明訓学校に学んだ田島利三郎は、さらに出京して皇典講究所に進んだ。皇典講究所は明治15年に、内務省高官と数名の国文学者によって「専ら国典を講究するため」として設置された神道の研究・教育機関である。後にここから國學院大學が設立された。
田島利三郎が沖縄に渡ったのは明治26年のこと。首里の沖縄県尋常中学校で国語教師としての赴任であった。ここでの教え子に伊波普猷がいて、伊波は後に沖縄学の父と讃えられた人であることは
すでに述べた。
沖縄での田島利三郎のことは伊波普猷が書き残している。そこには「
先生は琉球研究の先駆者だ 」と述べているのである。田島の沖縄文化研究は多岐にわたるのであるが、なかでも一番先駆的なものとして意味をもち、教え子の伊波普猷にひきつがれて、その後の沖縄学と沖縄社会に影響をもたらしたのが、琉球の古典神謡である「
おもろそうし 」の発見と、その研究に道を開いたことである。
⇒ 田島利三郎
田島から伊波にひき継がれた「 おもろそうし 」の研究で、古琉球の世界が明かされようとしたのである。これは、あたかも本居宣長が古事記に古代日本の原像を問うた営為と相応していると、こんにちの「 おもろそうし 」研究を大成した外間守善が述べているのである。
越後の明訓学校に学んだ田島利三郎の沖縄研究は、『 玉勝間 』に「 ゐなかに古のわざののこれること 」とのべて、地方にある古風の考証をとおして、わが国の本来の姿を確かめようとした国学の風潮を身につけてのことではなかったかと考えることになる。
「阿摩和利加那といへる名義」その論文も亦物議を醸して、
一部の沖縄県人から蛇蝎視されるやうになつた
オモロを楯にして、阿摩和利を弁護した
⇒ 田島利三郎

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