10.23中越大地震はこの地域の人たちすべてに、均しく大きな衝撃と不安をもたらした。三郎次は昼中の興奮と、電気のない夜の寂寥にさいなまれて、ローソクの灯で活字を追っていた。
「 木曽路はすべて山の中である 」と、有名な冒頭の一節にはじまる島崎藤村の『 夜明け前 』は長篇である。いつか読もうと手にしながら、あまりの長編に抛っていたのを、避難暮らしの無聊のなかで読んでいた。小説の舞台は旧中山道に沿う信濃の山村です。
主人公の青山半蔵は木曽路の宿場本陣・問屋・庄屋を兼務する村役人であった。
幕末の国学の地方へのひろまりは、武士社会のなかで、虫けらのごとく扱われた田舎の百姓身分の者に、地方の持つ伝統的な正当性の原理を自覚させることになる。青山半蔵はその目覚めから平田国学の信奉者となってゆく。幕末から明治維新にかけて木曽谷住民の生活を守るために奔走しながら、明治維新の熱烈な支持者でとなっていたのだが、時代に受け入れられない悲劇の主人公であった。
『 夜明け前 』の青山半蔵の悲劇は悲劇としておいて、三郎次が惹かれたことは、身分のない田舎の人たちが、地方に埋もれている こと・ もの ≠フ意味を問う自覚を得たことである。儒学的な大義名分に、かならずしもこだわることのない発想で、地方の内面の視点が国の変革をもとめて、幕末明治の維新を支えたことになる。
魚沼の関矢孫左衛門の志も、青山半蔵の意識と重なっていたと思えてきたのである。ただ孫左衛門が青山半蔵の悲劇の立場であったかと問えば、北魚沼郡長の地位を得て、南魚沼郡長も兼務となり、第一回国会議員の地位を得る孫左衛門と、時代にうけ入れられずに悶死する、木曽路の青山半蔵の立場は大きくへだっていたことになる。だが地方では抜群の地位立場にのぼりつめながら、それを抛って北海道開拓の殖民となった孫左衛門を何と理解すればよいのであろうか。青山半蔵の挫折の延長に、関矢孫左衛門の偉大なる挫折を読むのは不可であろうか。
「阿摩和利加那といへる
名義」その論文も亦物議を醸して、
一部の沖縄県人から蛇蝎視されるやうになつた
オモロを楯にして、阿摩和利を弁護した
島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村とちがって断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘があった。
馬籠宿で本陣・問屋・庄屋を兼務する青山半蔵の悲劇的な一代記であると共に、国家権力に翻弄されて生きる地方の一庶民が官尊民卑の政策に異議を申し立てた高度の文明評論でもある。藤村は幕末から明治維新にかけて木曽谷住民の生活を守るために奔走した父・島崎正樹をモデルにして半蔵を時代の犠牲者に仕立て、歴史を背景にしながら青山一族の

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