坂口博士は『 日本の酒 』に 酒を造るものは酒造家であるが、これを育てるのは国民大衆でなければならない ≠ニ書いていた。五十年ほどになる昔の書き物で、 国民大衆 ≠ヘいささか大げさに感じるが、つまりは酒を育てるのはそれを飲む人であると云うことになろうか。その弁によるなら 淡麗 辛口≠フ新潟の酒を造ったのは、新潟蔵元の精進もさることながら、それを好んだ飲酒家によるものとなる。
さらに博士の書には「さわりなく水の如くに飲める」ことが、酒にとって大切な基本的性格とある。ところがその「 さわりなく水の如くに 」が難しいところで、もちろん水っぽいものではない。 無味 ≠ニも違うようである。 いかような極端なくせや特徴があろうとも、それは酒の持ち味であり、めいめいの好きずきによること ≠ニして、大切なことは酒質の 調和 ≠ニ述べている。
このようになると素人にはなかなか不可解となるのだが、 太陽の光線が、内に七色の華麗を蔵しながら、何の色も示さないのと同じである ≠ニ説かれると、すこしはその気になれるのだろうか。
下戸の三郎次には、酒の味はなかなか難しい。分からないのは分からないでよいのである。
うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口さやけき
坂口博士が『 日本の酒 』にしるした歌の中にすべてがある。
気晴らしに臨んだ にいがた酒の陣 ≠ナあった。少し遊びの期間が長がすぎたようである。
先日
スベルベさんに乞うて、かねて念願の、宇賀地郷を見下ろせる台地に案内していただいた。昨秋11月からはなれていた魚沼に、今度こそ立ち戻ろう。

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