さすがの降雪も、弥生の暦をめくるとやや小康の気配である。
昨日、久しぶりに旧知の方に声をかけられた。ブログの更新が絶えているねと云われて、言葉がない。昨秋以来のままだから、この冬の雪にかまけてでは弁明にならないのである。根気精気の衰えが正直の弁となろうが、しばしの談話で、いささかの元気をいただいた思いでの書き込みとなる。
2月のある日、ムラの集会場の除雪作業に参加した。
すぐ近くのお地蔵さまの小さな祠は、深い雪にすっぽりと埋まっていた。
集会場の除雪が一段落すると、誰の指図でもなく、先導でもなく、集まった人たちは、自然の動きで、地蔵さまの前庭の雪堀に取り掛かるのであった。

集まった皆の笑顔がある。当たり前のムラ笑顔なのだが、フト考えてみるとこれは不思議な光景に見えてくる。この地蔵さまは一体どこの家のもの、誰の地蔵さまなのであろうか。
この小さな地蔵さまはムラ中の地蔵さまではないことを皆は知っているのだ。**家が関わっておまつりするお地蔵さまであることをムラの皆は知っていて、それでも、それぞれの家に帰れば自分の家の神仏を護持している人たちの笑顔がある。
薬師さまの信仰の家もある。稲荷さまとか白山さまや猿田彦さまを家の神に奉持している人も居る。それがこうして笑顔をそろえることができるのは、他者の神仏にも祈りと崇尊の心を寄せることのできる人たちだからなのであろうか。
こうして雪に埋もれている小さな地蔵さまはの存在は、ムラの人たちにとってどのようなことなのかと三郎次の思案は、静かに地蔵さまに問うてみるのである。

ムラの家々には、それぞれに屋敷神とか内鎮守あるいは護持仏などの、自己のこだわりの神仏を奉持することがしばしばみられるのであるが、そのこだわりを超えて他者と共通する信仰対象が崇尊されることもまたムラの日常のことである。
このムラの小さな石地蔵さまは、かすかな笑みだけで黙して語ることのないので、ここにお座します由緒を三郎次は知らない。地蔵信仰などと高邁な仏教教理はまして知ることではない。だが子供のころに地蔵さまの庭前に遊んだ記憶を曳いて、親しみの気持ちは強い。
一般にお地蔵さまには、田植えを手伝ってくれる「泥付地蔵」とか、災厄を避けてくれる「身代り地蔵」、あるいは火伏の地蔵さま、子供を助ける地蔵さまと、現世利益の物語が広まっている。むずかしい教理による信仰よりも現世利益の信仰に、誰もが親しみを感じるムラの地蔵さまが座しますようになったのではあるまいか。
ムラの誰もが、皆んながに気づくと、ムラの神仏崇拝の背景に共通公共公平の、ムラ原理がみえてくる。
自己のこだわりの利得 みんなの利得 自然 山菜 山の利得
自然公共の大益 南方熊楠 野田 地蔵様 平沢 平澤

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