秋山を訪ねたのは8月のまだ暑い日のこと。印象の薄れないうちに書き込もうとは 思うばかりのことであった。
三郎次の町は いま行政の合併のことで、巷が喧騒の中にある。耳目をそのことに傾けて日が過ぎたようである。
見玉のお不動さまを参って、長野県境になる大赤沢にいたるまでの間、
結東の集落がある。ここにも車を止めた。たしか20年まえに通ったときも、お盆すぎの日であって ここの
鎮守さまはお祭の様子があったのだが、この日もおなじ気配がしていた。
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魚沼の鎮守さまには広く見られる十二さまの幟旗がかかげられていた。
社前の広場には、
佐藤佐平治の顕彰碑が目に留まって、たしか20年前の日にも、佐藤翁のことは強い印象を受けたのである。

江戸時代の後期、
天保の飢饉は広く世に語りつがれてきた。当時の川口のことでも、多くの悲劇を読みとることができる。当時の飢饉は、農作物が実らなくなるほどの寒冷な気候がつづいてのことであったと言う。秋山では大赤沢の田んぼで見たごとく、山高く水の冷たいところで、稲の実りが悪い。もっとも その条件の悪さから、明治時代になるまで稲を作れなかったところと聞いていた。田んぼには稗を作ったと、それほどの山間であるから、わずかな山畑 焼畑と狩猟にたよる暮らしであったであろう。
うちつづく
天候不良による飢饉の深刻なことは、平地の比ではない秋山であった。

これを伝え聞いた片貝( 現今 小千谷市 ) の
佐藤佐平治が、多くの金穀を秋山に送って 救恤に努めたと言うことである。佐藤翁が秋山に送ったのは、籾(5斗入り)313俵、稗(6斗入り)526俵余であるというから驚きである。この佐藤家の秋山支援の仕来りは、135年の長きに続いたとのことであるから、それは
昭和40年代にまで及んだことになって、言い尽くせぬ感動を 多くの人たちに与えたことになる。
この夏には人影を見ないで、訊くことができなかったのだが、20年前の結東では、お年寄りから
トチの実のこと、粟・稗のこと、稲は明治になるまで作れなかったなどを聞いた。田んぼを開くには、水路堀を山に沿って引くことの困苦の話は、まだ親世代の語りとして聞いたのである。ちょうど三郎次のムラなどでは、中世から江戸時代に移る4・5百年前のことにあたろうか、なぜか懐かしさのこもった親しみの話であった。
佐藤佐平治の救恤は、もちろん結東の人は忘れていない。
籾や稗の俵とともに、昆布も多く送られてき、昆布を入れた粥で命をつないだのであったとのこと。
このことで、三郎次には思い当たることがあった。同じころ、
田麦山の大淵家を訪ねていた。旧家を守ってきた品のよいお婆さんから聞いたことは、庄屋を勤めた大淵家の屋根裏大そらには、昆布の俵がたくさん蔵していたとのこと、ここにも飢饉のときなど、昆布の粥をムラの困窮者にほどこすのであったと云うことである。
昆布の蓄えは、飢饉に備えての保存食糧となっていたのである。
ところで、
秋山は秋成村となって、さらに
津南町に併合している。このような山間の僻村をあわせた津南町は、
平成の大合併では 自立の道を選んだ。おそらく厳しい選択だったであろう。秋山を訪れて、この選択がわかるような、また不可解な不思議であるような、二つの気持ちを覚えてきた。
ムラが滅びるほどの飢饉のとき、差し伸べられた手は、近在の庄屋であった福原新左衛門の要請に応じた佐藤佐平治であったこと。おそらく御公儀や領主の救援よりも、
近在の民間からの支援が、深い記憶として語り継がれてきたのであろう。
津南町の厳しい選択に、この深い記憶との因果を三郎次は確かめられないが、無関係であったとは思われないのである。
人影の少ないムラの鎮守さまなのに、祭礼の雰囲気は華やかである。佐藤翁の記念碑に近づいてみたら、
玉串が捧げられていた。十二さまの祭礼に違いないが、
佐藤翁の記念祭でもある。だから、なお行き届いた気配が漂っていることを感じてきたた。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato032.htm

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