大雪の後の春は、駆け足ですぎてゆく。まだ四月だった昨日の越後川口駅前の桜である。例年なら小千谷の桜よりも開花が後れていたのに、今年はあまり差のない満開である。
堀之内の
スベルペさんの桜たよりも昨日であった。
それにしても五月の田んぼ仕事を始めねばならないのに、野田島用水堰の水門は暗い雪穴の中からやっと見えてきた。(
野田島は昨年の水害で、今期の田植えはできないのだが)

昨日アップの遠望、和南津山稜線の緑が気がかりなのだが近づくことができない。近くの三郎次里山は雪を踏みしめてゆくと、梢だけの伸びた寂しい落葉の林がみえてくる。

魚野川に面した段丘上の樹林は、かっての薪林なのだが、ここ60年来放置のままに、ノッシリとした残雪の厚さだけがある。

今冬の雪の深さを思わせて、いたるところの雪折れ倒木は山の荒れとみるのだろうか、自然のなりゆきとのみ受け止めてよいのか思慮ができない。

春の雪山には枯れ木の落葉樹林だけでなく、ところどころの緑の復活にも出会えることになる。この緑が懐かしくここに上ってきたのだ。

近づいて見上げると、ここだけはまるで五月の初夏の輝きがある。ブナの木の神秘を感じたいとここに来たのである。

この高台丘陵から見下ろすと、魚沼の山並の雪融け水を湛えた魚野川は曲流している。八郎場地先対岸の中州の残雪に、うす緑のほころびは川辺の柳木であ。山辺のブナと川辺の柳の緑のよみがえりは、われらに雪国の春の爆発を実感させるのだ。
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山からの下りぎわ、目に留まったほのかな白さは、まだ蕾のふくらみと開きはじめたばかりの山桜のひっそりとしたたたずまいであった。

雪ののげ落ちた山のヒラだけは春が早い。すみれとかたくりの花の可憐さは、やはり雪国の春の象徴である。それでふと気づいたのだが、子供のころの春の土手に見慣れていたのは紫のすみれだったのに、近年は黄いろすみればかりが目につくのはどうしたことかと思うのである。

ブナの林を下りると、山すそに雪融けの水が流れ出ている。魚野川の水嵩を満たすささやかな源流である。やがて夏の日には涸れ細る流れなのだが、里の稲田を潤さねばならない源流である。

山を下りたところに三郎次と仲間の稲育苗ハウスがある。苗箱の稲芽はまだそろっていないので、窓はしめている。爆発する春を送りながら、すぐ代掻き・田植えの時期を迎えねばならない。

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