国道を八郎場から魚沼市に向かうとき、いつも気になって目が向くのはとび沢≠フ滴り水である。
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江戸時代前期にはこの沢の下にあったとされる新道島村が、石高72石のムラ規模であったとされて、この沢の垂れ水がいかばかりの水量があったのかと、今も気になっている。とても 72石のムラを潤すだけの水量には思えなかったからである。
この日(5月1日)のとび沢≠ヘ雪融けの水量で白い水しぶきの滝が落ちていた。とても夏の日の垂れ水からは想像のつかない水量である。

この沢の水頭は山(
丘陵台地)に上らないとわからないのだが、あたりの崖端などを見るに、おそらくこのように雪の下から始まる小さな流れが、幾筋と集まっての水源であろうか。

そしてこの細い流れの集まりが、少しずつ山肌を侵食しながら、さらに水を集めて落ちてゆく。

国道を車で走りながらの遠目では、中越地震で表土の落ちた山肌は、もうなにも落ちるもののない堅固な岩肌にみえたが、近づいてみるともろい砂岩の地山のようである。幾筋かの侵食跡の溝が広がっていた。
すぐ近くにこの春の雪水でのげ落ちた地すべりの跡がみえる。10.23地震で崩れたのを整地したばかりの水田の上に、再度の崩落地すべりが広がっていた。

これが魚沼丘陵の素顔かと気づくと、この丘陵地の麓に生活の場を開いた初期の新道島村の人たちは、村の背後の山崩れ地すべりと、すぐ前の魚野川の洪水氾濫で、70石のムラ維持の苦闘が想像されるのである。
そればかりか、雪溶け水が涸れるころには、この沢水は70石のムラの田んぼを潤すには細くなっていたのである。

まだ山陰に雪の残るここにたたずんでいると、400年前の小さな村が、やがてここを去って魚野川の向こうに移って行かねばならなかった事情が浮かぶようである。その現在の地の新道島にしても、水の利用の制限から、畑地ばかりを多く引き継いだ中世村落の形態から逃れるのは、ずっと後れて江戸時代の後期に竜光村の芋川からの引き水が、ようやく田んぼの広がりを大きくしていたのである。

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