いつもより早めにコシヒカリの出穂を迎えたが、その後の天候がやや不順。稔りの秋を気にかけながら迎えたお盆の日である。それでもゆれる稲穂に向き合うていると、気持ちの和むいつもの八月十五日である。
ふと思いおこす少年の日の八月十五日がある。六十九年前の八月十五日は暑い夏の日で、和南津山の上に白い入道雲が大きく立ち上がっていた日本の敗戦の日の記憶は、いまも鮮やかである。そして、いつものお盆のように、今日も川口町戦没者慰霊碑の前にぬかづいていた。
川口 宝積寺境内・戦没者慰霊碑
今日はあの日と違って薄曇り、ときおり小雨もぱらついている。

碑に刻された三百二十三柱とされる(『
川口町史』)戦没者名を目だけでなぞってゆく。世代の違う自分には知らない名前ばかりである。それでも、33戸ばかりの自分の集落出身者九名のことは、どこそこの家の誰と聞いた幼い日の記憶は残っているが、面影はもちろん知るよしもない人たちである。
先日、ムラではここに名前を刻された戦没者を夫とした老婦人が亡くなられた。最後の戦没犠牲者の妻となって、家を守り抜く生涯を生きられたかたである。
また2・3日前には、海軍航空隊として果てた遠縁同姓の人について、その親族の人の話を聞いたばかりである。最後の帰省のときには軍刀を背負った長靴の軍服がりりしかったと語る知人は、三郎次とは二つばかり年上のほぼ同世代、少年の日の記憶のことである。海軍少佐、特攻隊指揮官のことは母の語りに聞いて、自分にも遠い日の記憶である。
三郎次には直接の近親者に戦没犠牲者はいないが、それでも一人は千島列島の守備について、アリューシャンの海に戦友の多くを失ったと語っていた。またもう一人は台湾からの輸送船で大陸に渡るとき、米軍の攻撃を受けたが難を逃れたとのこと。だか船団の僚船が沈んで、乗り合わせた同郷の出征仲間の一人は海に飛び込んで助かったものの、もう一人は南の海から帰ることがなかったと云うことである。戦後、まだ台湾海峡の緊迫が解けないころ、その戦没者の両親は現地に訪れることが叶わないまま、沖縄まで渡って南の海に向かって息子の霊を弔ったとのことは、同行した自分の父の話である。この台湾海峡に沈んだ戦没者も慰霊碑に刻名されていた。
先日の『 新潟日報 』紙切抜き
遠い日の八月十五日の記憶は、海原の大潮小潮のように、年ごとのお盆の日には三郎次の胸に打ち寄せてくる。

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