ブナのみどりと、コブシの花の白さが一斉に春の山で競うときは、播種した稲種の芽ばえも良く揃う。苗立ちが良いと喜んでいたのが、ここにきて生育の速さが気がかりになってきた。田植え時期が予定より早まりそうなことが心配なのである。早すぎる田植はよろしくないとの指導があるからだ。
でもきれいにそろった稲苗を見ていると心が和むのも現実である。
この時期は山菜の季節である。様子見に山に入ろうとしたら、山陰に不法投棄されたゴミ山があった。先年にも同じことがあって、地区の役員さんが処分していたのにまた同じことになっていた。今回も役員さんががんばって処理してくれたのだが、このような看板も立つことになって、悲しい現実である。
そして山菜とり禁止の立札が、これも悲しい現実である。
「この地区は気持ちの良いところではないね」と、わが家の前を通った他所の人の言葉である。せっかく来たのに、ささやかな春山の楽しみを禁じられてしまったからだと言うのである。
「なるほどね」「やっぱりそうか」と受け止めながら、三郎次にはいささか反論の気持ちがもたげてくる。だが己の気持ちにもまた残念と思えてしまう。
毎年この季節になると山菜などをめぐる春山のことが新聞などの記事に載る。先日の地元紙(新潟日報)のコラム欄に「山菜採りは珍味を味わえるだけでなく、足腰の鍛錬にもなるため高齢者に人気」とあった。そして、山菜に似てまぎらわしい毒草もあるから細心の注意が必要としている。また、山は私有地ということも多いので、入山してよいのか確かめるようにと述べている。もっともな記述であるが、山元の三郎次には何か大事なことが欠けているような思いがする。
同じ地元紙に読者の投稿もあった。毎年この時期に頂き物の山菜が届くとのことで、なぜか山菜をいただくと、細胞が目を覚まし、エネルギーが体に生まれるような感覚になるから不思議だと、新潟市からの投稿者は高齢者と覚しき70歳の方である。三郎次も若年のおりには気にかけなかった里山とか山菜がしきりと気がかりになる。やはり心身ともに「エネルギー」を求める年齢に至ったことかと、これも残念な現実なのか、あるいは自然の摂理にそうたことに得心せねばと思うことにもなる。
< こごめ >と< きの芽 > 、 < ふきのとう >はとうに終わっていた。
こどものころ、苦味のある山菜はどうしても好きになれなかった。今はあのホロッコ苦さが無性に美味い。春一番に芽吹く山菜のたくましさ、雪の下で蓄えた野生の旨味とでも云うのであろうか。
山うどのいため物 ↓クリック拡大
魚沼での暮らしは時代と世代をさかのぼるほど、自然との深いかかわりの中で生きてきた。かって山菜は今日のように珍重する食べ物、まして日報紙の記事のような「珍味」などではなく、長い冬こもりに耐えて、待ちながらえた春一番の自然の恵みとして重要な食材だったに違いない。野山からの自然の恵み、そのエネルギーに接する生活が深いと、そこからうまれる自然への畏敬が積もって魚沼の山ノ神、自然神信仰の背景になっているわけです。
私の祖父などは、野山の春の若草・若木潅木を山田に刈り込んで、田植えの代つくりをしていた。田んぼが湧くので稲作に良くないと説いても止めないでいた。田んぼの湧くのが大地の元気で、稲が喜ぶとでも思っていたようである。
今、私は祖父の稲つくりの気持がわかるような気がする。いや、わかりたいのである。春の山菜が美味しいように、田んぼの稲にも春の若草・若木が良い養いになって育つのだとする感覚、大地のめぐみ・エネルギーを受けて育つ野性の稲こそが本来の魚沼の稲だと考えたいのです。
魚沼の自然を享けた山田の稲、山の湧水を導いた池の水が稲を育てる。 ↓クリック拡大
里山の自然によりそうて、生をつないできた魚沼の暮らしなら、里山の恵みとは何か、それは誰のものか問われることになる。
山に入って「 立入りお断り 」などの立て札を目にするといささか戸惑いを感じる。自然の恵みの享受には本来もっと自由があったのではないかと三郎次の思案になる。

子どものころには山遊びの自由があった。ムラ中に境界はなかった。叱られながらもよその畑や、田の畦でも遊んだ。あるのは隣のムラの境だけである。
子どもはムラの感覚の伝承者である。ムラの山では、山の持ち主などへの心得はなく、勝手に栗・胡桃などの木の実を採っていた。うど、蕗のとう、わらびなどの山菜ももちろんである。「 山のものは、誰のものでもない 」と言う感覚にはその対意に「 みんなのもの 」とする感覚が込められている。つまりそこには自由の雰囲気があった。それでも大人になると、つまりは当世の感覚で山の持ち主のことがわかり、 山の自由 ≠フなかに 遠慮 ≠フ意識も覚えることになっていた。
遠慮 ≠ヘ、その場に応じた配慮である。その配慮で、 山の自由 ≠享受するのが、ムラのきまりであった。
ところが近年、素朴な山郷のムラに立ち入る人たちには、 ムラのきまり ≠ェ理解されないのか、勝手な 山の自由 ≠セけを享受する人たちが多くなっている。
山の自由 ≠ノは、刃物を用いない。山菜は根こそぎ採ることはしない。山の自然の恵みの享受には、その自然を傷つけないようにする。この当たり前のことがなくなると、山には 立入り禁止 ≠フバリアが張られて、 山の自由 ≠ヘ失われることになる。
本来、山の自然は個人の 所有 ≠ナはなかった。その恵みを享受することが許されて、その利益は等しく共有であった。各地の またぎ ≠笂島の漁師集落での獲物は独占の感覚ではなく、分け前の分配にひろく平等の意識が伝えられてきた。自然の恵みの利益は共同体のものとする感覚が生きていたのであろう。
日本の近代化では、この自然と接する感覚を弱め、所有 占有 権利 などの思想が大きな意味をもたげている。山の自由は私権によってさえぎられることになる。だが旧来の山の自由の感覚も残存して、恣意的に引き継がれているから、自由な山菜採取の感覚は、当世の土地所有意識との間に齟齬が生じる現実がある。
里山はムラの暮らしと接続した自然である。ムラの生活圏に内包されてきた。その自然との関わりがムラの盛衰と大きく結んでいた。中世社会を引きついで、おおむね近世・江戸時代にかたちを整えたムラは、地域の共同体意識の感覚が強められている。それが地域の きずな ≠ナある。10.23新潟中越地震被災のおりにもこの きずな ≠ノよって耐えてきた記憶は新しい。
きずな ≠ヘ相互の関係であるから、うち向きの気配にあって、部外他者には及ばない傾向にある。それは仲間内の利益は連帯で保持するとの意識からで、連帯の意識になじまない部外他者を内に抱えることにはならないのである。
山菜めぐる山の自由は連帯意識のムラ内での自由であって、部外他者にも当てはまる自由ではなかった。連帯の意識に裏打ちされた里山での自由には、里山からの恵みを損なわない配慮もまた連帯の下で管理されていたのであ。
この中世・近世と引き継がれてきたムラの生活感覚は明治の近代化のなかで揺らぐことになる。
山のものはやたらと家に持ち込むなとした祖父の感覚には、山の持つ霊威、畏れかしこの存在を意識していたことであって、山にこもる非日常を感じていたからであろう。それは今日の言葉で云えばカミの存在を、山野の自然の中に信じる素朴な信仰である。そしてこの感覚につながるもうひとつの意味は、山の自然は全体のもの、皆のもの、いわば公けを認める原初の村落共同体の感覚が見えてくる。山の畏れはムラ全体のもので、また恵みも皆のものとする共同体意識である。春の山菜の採取がムラの誰にも許されて、今日 個人の持ち山にも 勝手に山菜取りに入るのは、山野自然に関わる共同体意識の延長感覚である。
環境保護とか保全、あるいは自然との共生は近代の唱えことか?
自然の恵みは限りなく公共の利益
公共の利益を損なわないのがムラの感覚、そこにムラの自由が内包されていた。
勝手気ままな自由の制御 山の畏怖に対する自由 山の畏怖と尊厳を失った者への制御
山への畏怖と尊厳の心を共有する者たちの自由

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