沖縄との出会いはいつも突然である。
初めての沖縄は昭和28年、60年も昔のことになる。苛烈な沖縄戦で、アメリカの占領下におかれたまま、復興がまだままならない沖縄の高校生から、「祖国日本のみなさまへ」と訴える本土復帰の切実な願望がつづられた手紙を受けとったのである。(
当時の私も高校生)
以来 沖縄にかかわる様々な情報が私の脳裏にとどまることになり、いつか気がつくと、遠く離れて無縁かと思われがちな沖縄のことにも、ふるさと魚沼にかかわる様々なことを学んでいたのであった。
先日、沖縄からの突然のメールは、稲のこと米のことの情報を求めてのものであった。
今日の新潟県の稲作を支えている稲コシヒカリの栽培が広まるのは昭和31年からで、私はそのころから家の田んぼに入っていた。そして柳田國男の『海南小記』と『海上の道』にふれて、田んぼの中から、魚沼の稲作と南島とのかかわりを思うようになっていた。

『海上の道』は日本民俗学を起こした柳田國男のその生涯の集大成ともされる最晩年の著作である。日本列島への稲の渡来を、稲種を携えて琉球列島を北上する日本人の民族移動とともに論じて、東支那海から太平洋にぬける黒潮の主流をルートとして展開した日本人のルーツを説いている。
日本への稲の伝来ルートには
@ 朝鮮半島からの伝来。
A 中国長江から東支那海経由の渡来。
B 琉球列島にそって北上の渡来。
などの諸説があって、定説としてしぼられた説明はないようです。
Bの琉球列島北上説が、柳田國男のいわゆる「海上の道」となるのだか、学問的にはこの北上説を否定する論考が多くなっていた。南島の考古学研究が、沖縄の島伝いに稲作をしめす遺跡を発見していないからである。現実の稲を伴わない稲の道はあり得ないと、「海上の道」北上説は否定されるのであった。しかし、近年には農学の遺伝的研究によって、稲の性質の新たな知見から、東南アジアにつながる「海上の道」が見直されようとしている。
だがこのような大きな学問的考察には、魚沼の田んぼをフィ−ルドとしているだけの私などが、にわかな関わりのできる場面ではない。
魚沼は雪の深い北の国である。沖縄を意識するようになってからとりわけそのことを痛感してきた。
3m余まで積もる雪は、4月中・下旬まで(
場合によっては5月までにも)残ることになる。冷たい雪水の中に稲種を浸すことから稲作の現場が動く。雪を掘り割って苗代をつくる。低温の中での稲苗起こしの難しさを経験してきたのである。
沖縄では6・7月には島米が穫れるとか、二期作のことが伝わってくる。 ススキのような稲 ≠ニ唄う沖縄の古謡・神歌を知って、暖地の沖縄では稲の生育がどんなにすごいのであろうかと、単純な想像をすることもあった。
→ 沖縄のバケツ稲 コシヒカリの生育
だが、雪国魚沼が北の稲作に苦労を抱えてきたと同じように、沖縄もまた様子こそ違ってもやはり南の稲の難しい事情があったと知るのであった。
つづく

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