ふるさと魚沼 えちご川口

    信濃川 と 魚野川 の出会う 越後川口に、雪深い山郷の歴史と文化があります。
   < 魚沼産コシヒカリ > ふるさとの便りを お届けします。   新潟県北魚沼郡川口町中山946-3   三郎次

 

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投稿者:Nさん
敗戦後10年を経た昭和30年頃には、「旦那ショ」ではなく、「XX(屋号)ドンの鳥追いだ」と言ってお菓子やミカンをもらったと思います。
野田の「村」とは、もっと昔の集落名としてではなく、戦後の進駐軍の「地方自治」内務省や警察の中央集権排除の思想に基づいた名称ではないかと思います。
東川口では地域ごとに子供会が組織され、文化村、平和村、建設村などの名称が使われたことを記憶しています。それが今の川口一〜五に見合うような気がしますが、正確には分かりません。それも数年(S35年前後)してなくなったように思います。
投稿者:三郎次
仁さんの記憶の鳥追い歌で、もう一言ふれておきます。
同じ野田の鳥追いで、私のときは 「 だんなショの鳥追い 」 と唄ったのに、25年後の 仁さんの場合には 「 野田の村の鳥追い 」に変わっています。実はこの変化の現場に私は立ち会っていました。

昭和20年の敗戦で、戦後社会は大きな混乱に巻き込まれていました。田舎社会での変化は地主層の解体です。戦前の地方の指導者たちの公職追放です。進駐軍の戦後施策を身近に感じたのは、これまで旦那さまと云われていた地主や地域の有力者たちの立場が相対的に低下したことでした。

こんな田舎社会の変化をムラの子どもたちも微妙に、敏感に感じとっていました。戦後の民主主義教育と平等思想の洗礼を受けた子どもたちの上級生が言い出して、「 だんなショの鳥追い 」 は封建的でおかしい。それで 「 野田の村の鳥追い 」 に唱え言葉が変わったのです。昭和22〜3年の、三郎次の小学生半ばのことでした。

子ども仲間に入って 「 だんなショ 」 で覚えたのに「 野田のムラ 」 で卒業した違和感は忘れません。
ここで思うのですが、、「 だんなショの鳥追い 」 を封建的なこととして否定した上級生の感覚はすごいとに違いないのですが、稲作の予祝行事としてのムラの子どもたちが維持してきた伝統的(文化的)な立場への理解が及んでいないことです。

鳥追いで子どもたちがムラをめぐっての予祝の寿ぎは、ムラ人と神とがかかわった原初の姿が引継がれていたのであって、廻って来た子どもたちにお菓子とかお餅を差し出していたのは、神に対するまつりの作法だったのです。この原初の神に対する関係が 「 だんな 」 であったわけで、現代の金持ち支配者のことの理解では「鳥追い」の意味が分からなくなってしまいます。
この意味では、「 だんなショ 」 から「 野田の村 」に唱え言葉が変わったことで、野田の鳥追いには、本来的にムラが引継いできた日本人の感性が大きく揺らいでしまったことになります。

戦後社会の日本の大きな揺らぎの一つと思っています。
少し辛気臭い思い込みのコメントようです。ご勘弁を。

投稿者:三郎次
Nさん さま、コメントありがとうございます。
仁さんも、思いがけないところで触れあいをいただいてありがとうございます。
魚沼は大雪なのですが、いまは小康状態です。でもこれが本来の魚沼なのだとの感じです。

ところで鳥追い歌は、こんにちではどこも短くなっているようです。実は私が子どものときは、書き込んだ歌詞よりもっと言葉があった気がするのですが、やはり忘れてしまいました。
追わなければならない鳥は、ドウとサンギと小雀のほかにもアオガラスと唱えていた覚えがあります。

アオガラスはどんな鳥か知らないのですが、たぶん夜ガラスかなと思ったことがありました。当時は夜になると姿は確かめられないのですが、暗闇の空にカーウ、カーウとの鳥の声を聞きました。あるいは鷺のような鳥の声だったかもしれません。

子どものころの昭和20年代には、身の回りにはもっと多くの自然があって、多くの生き物のがいたことは確かです。でも朱鷺のことは知りませんでした。
Nさんのお説のとおり、「ドウ」は朱鷺と後に知ったことです。このことは本文書き込みで触れるつもりです。
投稿者:永盛の次男、仁
お久しぶりです。
昨年、実家借家(堀之内)で貴重なお話を拝聴させていただいて以来でしょうか。
本ページをいつも拝見させて頂いておりましたが、文才に欠けるためになかなかコメント出来ずにおりました。
郷里を離れ23年、初めて知る古里の歴史をに感動しております。
今回、鳥追いの話に触れ、私の小学生時代の事を思い出しました。
当時(昭和45〜51年頃)野田の村では小正月の晩は6年生の家、又は家の前に作った「かまくら」に村の小学児童が集まり、日が暮れると拍子を鳴らしながら村を練り歩き、各位家から「お菓子」を頂いておりました。(ハロウィーンみたいですね。)
鳥追い歌ですが、私の記憶ですとかなり簡略され、
“ 鳥追いだ、鳥追いだ、野田の村の鳥追いだ
  どごからどごまで追っていった
  佐渡が島まで追っていった、ホーイ”
だったと記憶しております。
当時は歌の内容まで深く考えておりませんでしたが、鳥追い本来の意味、歴史が有ったのですね。
いつか私の息子達にも、父の古里の歴史を語れる日が来る事を楽しみに、今後も本ページを拝見させていだだきます。
まだまだ寒い日が続きます、御体調崩されません様に。
乱文、失礼しました。
投稿者:Nさん
鳥追い歌ですが、私の小さい頃には、前半3行(佐渡島まで)でおしまいでした。今はどうでしょうか?
「どう」というのは、朱鷺のことですか?
何か、失われたもの、を気づかせて頂きました。

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