● より良き感応をめざしたものとしての歴史
より好ましい感応を得ることを目的として「人間」が存在し歴史を紡いできたと考えると、それが類的なものではなく階層的なものとして追及されてきた歴史過程があるように思われます。
現実を見ても、「人間」が、自己がより好ましい感応を得るために他者を手段化する階層と、他者がより好ましい感応を得るために自己の活動力を提供する階層に分化されています。
支配−隷属の関係は、このような感応獲得における対立関係ということもできます。
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「人間」が存在する意味や目的の有無
意味や目的が付与された対象
超越的な目的と現実的な目的の接合点
につづくものです。この順番でお読みいただくことをおすすめします。
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より良き感応への渇望と悪しき感応の排除を目指す“利己的”階層とより良き感応を制限され悪しき感応を押しつけられる階層という分化が、支配−隷属の関係の内実だと思っています。
この支配−隷属関係の持続が、全自然的実存としての類的個の在り様を歪めていると考えています。
“労苦”と考える生産的労働から“自由”になった支配層は過程性がないまま成果から得られる感応を享受し、支配層に隷属する人々は、活動を他者の目的のために行なったり、活動成果のある部分を奪われるという構造が、十全な類的個から半端な個に変容させ、諸個人がもつ「世界」をそれにふさわしいものにしていると思っています。
支配層も、労働の成果である物質的に豪奢な暮らしを求めるだけではなく、精神的充足も手に入れようとします。
精神的充足に対する希求は多忙を極める隷属者よりも強いものがあります。
(物質的ないし快楽的感応に食傷したり意味を見出せなくなったごく少数の支配層は、精神的充足のために財産を譲渡し隠遁の道を選ぶこともあります。食傷したり意味を見出せなくなっても特権を捨てない人が多数ですが)
支配−隷属の関係は、たぶん、生存必需品に“過剰な余剰”が発生したことが端緒なのでしょう。
備蓄程度の余剰であれば、軍事機構・官僚機構・聖職者及び学者・文化的建造物の拡大は厳しく制限されます。
統治制度・純化された知的活動・文化的活動が拡大するということは、“過剰な余剰”が拡大していることに他ならず、「人間」の相互関係的活動の分裂が拡大することでもあります。
(“過剰な余剰”が、悪しき感応の総体的な低減や良き感応の総体的な増大につながらなかったわけはわかりませんが、支配−隷属の関係は、内部発生というより外部共同体との関わりで生じたと思っています)
文字も、有史と同義ですからそれほど古い出現ではないように、言語とは違って“かくあれ”にとって不可欠なものではなく、支配−隷属関係や商人の確立に伴ってつくり出されたものだと考えています。
(知識の累積や伝播で有用であることを認めても、文字を生み出したことが“進歩”だというのは錯誤です。濃密な相互関係性においては文字を媒介とした意志疎通は不要であり、「人間」の諸能力と文字とは無関係です。“死んだ”文字よりも“生きている”言語で相互関係をもつほうが能力の涵養に資します)
人格神による啓示宗教や哲学も、信仰や理性的価値付けで人を納得させ動かさなければならない支配−隷属関係状況のなかで生み出された(生じた)ものだと考えています。
(宗教的「世界」や哲学的観念そのものは支配−隷属関係に先立つ根源的なものだと思っています)
いわゆる文明の発生とは、支配−隷属関係の確立に他なりません。
類的個の分断という文明史に入って以降、感応を理解しよりよき感応を得るための手段である理性や知性が、逆に感応を抑圧し「世界」を歪めるようになったと思っています。
他者を利己的なより良き感応のために手段化する状況が続くなかで、支配者も隷属者も、類的個や全自然的実在であるとの「世界」を見失い、個人間の対立・自然の手段化(人間と自然の対立)・肉体と魂の分裂(物質的労働と精神的労働の分裂)・感応の否定と理性の称揚・共同体(国家)間対立などに結びついていったと考えています。
隷属者は支配者の感応追及の手段として自己の身体的活動力を提供し、支配者はその立場の維持とより良き感応の追及にいそしみ、支配者の執事たちは、支配者のそのような目的を支える活動に励みます。
支配者の執事たちは、いわゆる知的活動従事者ですから、生身の身体をもって自然に働きかけることが余技となるため、観照的で理性的な思考に傾きます。
隷属者にしても、現実の在り方と折り合いを付けなければなりません。
なかなか踏み切れないとしても、悪しき感応のみを強いられた個は自死を選択することもできるので、他者の絶対的手段化は困難であり、限定的な良き感応の獲得を認める一報で隷属的在り方を納得させる観念を要請します。
統治理論や宗教は、支配層の自己正当化や隷属者の納得に大きな役割を果たしています。
(「パンとサーカス」政策から隷属は神の御心に適うとし死後の永遠性を信仰で得られるとしたパウロ主義キリスト教から近代価値観まで)
肉体と霊魂の二元論や外なる超越的な人格神そして哲学などは、類的個が支配−隷属に分断された歴史が形成した「世界」の表出だと思っています。
支配−隷属の関係は、指導−被指導の関係とは次元が異なります。
理性的思考活動の成果である知識や論理は他者が生み出したものを利用できる譲渡性や共有性がありますから、指導−被指導の関係は、「人間」が全自然的実在として誕生した時からあったはずです。
そして、指導−被指導の関係は、固定的な関係性ではなく、ある関係的活動では指導的役割を果たした人が、別の関係的活動では指導を受けるというものです。
指導−被指導の関係においては、尊敬や納得はあっても、強制や隷属はありません。
近代文明では、より好ましい感応を得る手段として貨幣が普遍化しました。
(血統的身分も貨幣という基盤に支えられるようになり、商人的条件が普遍化したということができます)
物質的感応や精神的的感応を得るための奴隷(=手段)も、買い取り・債権・戦争を通じてではなく、ある時間を隷属の身に置くことで残りの時間により良き感応を得ようとする人々を時間買いすることで済むようになりました。
これにより、支配−隷属関係は貨幣保有の量的差異性に隠れるようになり、あの人のために自己の活動力を譲り渡しているという現実意識は薄れるようになりました。
身分という人間的異質性ではなく、貨幣という同質の量的多寡が感応の主要な条件になったことこそが、「平等」価値観の支えであり、「民主主義」の基礎だと考えています。
主要な生存(感応)維持手段である土地から離れることが「自由」だとも思念されるようになりました。
感応の特性である差異性・多義性・個別性も、感応を得る主要な手段となった貨幣の均質性のなかに覆い隠されてしまいます。
様々な相互関係的活動が、ただ一つ貨幣を得るためのものに抽象されてしまう様相を呈しています。
様々な相互関係的活動がより多くの貨幣を得るという目的に集約されるようになりました。
何より、(経済)社会が、資本(集積された貨幣)の自己増殖運動として表現できるところまで達しています。資本の増殖論理に反する判断や活動はそれを行なうものやそれに従属している人たちを窮地に陥れます。
人格的超越神の観念が貨幣の普遍化により奇妙な物神のかたちで現実化し、貨幣が支配者であり、生身の人々はすべてそれに隷属するという関係性が現れています。
消費物ですらない貨幣が絶対的支配者になることで、「人間」は主要な相互関係的活動に具体的な意味性や目的性を見出さなくなり、ただ抽象的な“お金稼ぎ”という意味性と目的性に還元されるようになりました。
(1億円の札束よりも小さな田を耕すことのほうが実在的な意義があることさえわからなくなっています)
宗教や哲学そして科学的理論も、このような現実に呑み込まれるか、それにただ反発するかになっています。
そのような隷属関係から自由になれるのは、支配者である貨幣をあり余るほど保有している人たちだけです。
貨幣が人を支配する力を持っているはずもないのですから、圧倒的な量の貨幣を保有している人たちが支配していることは確かです。
生身で感じ取る感応であればその追及も自ずと抑制が働きますが、貨幣獲得については、価値観による抑制がなければ、食傷することもなく貪欲に疾走する危険が付きまといます。
そのような現実でも近代価値観・法律・統治者・国旗・国歌などで統合性や一体性を追及しなければならないというのは、支配層の利権を維持し拡大するためだとしても、類的実在性が生き残っていることの証でしょう。
類的実在性が国家という抽象的支配構造に呑み込まれ、個人は“自由な”個として貨幣獲得競争に翻弄され、家庭などごく限られた時空間で類的実在性を生きています。
(家庭も、そのような場ではなく、貨幣の再分配の場になっているようにも見えます)
あれこれ書いてきましたが、ここで書いた内容は、私の楽観主義を根源的に支える思念の表明なのかもしれません。
リアルである全自然的実在性と生き生きとした多様な個性的感応をここまで押し潰している文明が類的個の在り方として継続するとは到底思えないからです。
そして、そのような現実の代償であった物質への執着も、世界的なデフレ不況のなかで徐々に断ち切られようとしています。
感応の良し悪しを理念や理論で誤魔化し、良き感応の機会を奪い悪しき感応を押しつける状況を継続することはできません。
(先進国国民が手に入れた物質的代償が削減されることで、空虚な理念や理論が通用しにくくなります)
多くの人々が生きる目的は自分しか感じ取れない感応をより良いものにする(心地よく生きる)ことであり、それは自分が全自然的実在であるという「世界」を持つことを通じて達成できると考えれば、たかだか数千年しかないと思われる文明は瓦解に向かうと確信しています。
そして、好ましい感応を得るための活動であれば、その過程で生じる好ましくない感応も糧とするはずです。
世界的なデフレ不況や「対イスラム戦争」が短期の過渡的悲惨な災厄として決着をつけられ、全自然的実在として個人が無理なく生きられる開かれた地域共同体に移行するのはそう遠い先の話ではないと思っています。
その時まで生きているかどうかはわかりませんが、そのような「世界」を多くの人が好ましいと判断し、人類の“共食い”や破滅も起きないのなら、超越的な目的にも適った在り方だということでしょう。
2007/9/24

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