キライなことば―「信じる」投稿者 あやみ 日時 2013 年 5 月 05 日 から転載します。
つれづればなより転載
こういう美々しい言葉には気をつけたほうがいい。
「平和」「正義」「自由」などと同じく、耳にはじつに心地よいが。
「信じる」、なにやら得体の知れない押し付けがましさを感じる言葉、それは今流行りの「絆」にも似たものがある。ただでさえ言論というものが力を持ちすぎたこのご時勢、それに振り回されないためにもこの怪しげな言葉を疑ってみる価値はある。
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いま我々が使う日本語は「現代日本語」である。それ以前のものをおおざっぱに「古語」という。「古語」は新しい順に「近世日本語」「中世日本語」「中古日本語」「上代日本語」というように別けられる。言語の様相が変わるからにはそれだけの理由がなければならなく、たとえば「現代日本語」が生まれた契機、それは明治維新にともなう西洋文化の流入つまり「ガラス」「ピアノ」のように外国語を外来日本語として輸入するか、「心理」「哲学」のようにそれまでの日本になかった新しい概念の対訳として新日本語を造語することで語彙がふえたことにある。
それ以前の転換期にも似かよったことが言えるのだが影響したのは西洋ではない。上代においては大陸の文物と渡来人の来日と律令制度、中古は遣唐使廃止と仮名文字発明による内的な熟成、中世は政治の担い手が近畿の公家から関東の侍へと変わったことによる「あずまことば」の開花と禅の影響、そして近世は天下泰平の中で多様化した社会・職業・身分においてそれぞれの言葉が独自に育ったことにある。
では、上代日本語以前のこの国の言語はどうだったのだろう、ということになる。
古代語、仮にそう名づけると、それを指して純粋な日本語というかは難しい。遠い昔は日本列島は大陸とは地続き同然であり、陸伝いに人々が、島伝いに舟々が行き来していたのであるから、大陸の影響を受ける前の時代などというものはもとより存在せずその意味で純粋な日本語というものもありえない。すると議論はなぜか日本が大陸の属州であったか否かに掏り替わり兼ねず喧嘩腰の方々を喜ばせるだけになる。それは本稿の目的ではないためそこは「そうっとして」おくことにする。
我々日本人の古代語は、漢字、かな、いかなる表記文字をも持たぬ「おと」によってのみ言い表すことのできることばである。その「おと」による太古からの一語一語に五世紀以降大陸からやってきた漢字を意味の上で対応させ、そうして日本語が表音・表意の両方に使うことのできる文字を得た。日本語固有の「おと」は「訓読み」として後世まで残ることになり、漢字の持っていた漢語音が日本風に訛ったのが「音読み」である。
漢字以前の時代から日本にあったことばを特に「やまとことば」という。漢字と出会う前であるためやまとことばに「音読み」は存在しない(とも言い切れないのが悩ましいのだがそれ別の機会に)。
そこで「信じる」というこの日本語、辞書では訓読みとされているが、漢語の「信―シン」に「する」という日本語の動詞がくっついた(膠着した)ものだ。つまり漢語外来語からの造語であってやまとことばではない。
この連作では明治以降に採用された「明治の新語」の生む悪影響を主に取り上げてきたが、今回の「信じる」は新語と呼ぶにはいささか古いといえる。
いったいどれくらい古いことばなのだろう、それはわからないが、とにかく「信じる」という行動を我々は古代から外来語に頼ってきた、さらに昔は「無かった」かもしれないというから、えっと驚く。
現代日本語での「信」は大きく分けて二通りの意味を持つようになった。一つは「通信」「音信」「信号」に見られる記号的な使い方である。情報を機械のように無感情に淡々と伝える方策であり、その情報が真実であるか否かはここでは問われない。
もうひとつは「信仰」「信心」「信頼」「信用」「信念」、つまり「本当と思う」こと、悪い言い方をすれば「思い込む」ことであり「信じる」といった方が美しげに聞こえるが意味は同じである。
「信」の文字は古くは聖徳太子の「十七条憲法」の中にみられる。
九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。
九に曰く。信これ義の本。ことごとに信にあるべし。それ善悪の成敗は。かならず信にあるべし。群臣ともに信あれば。何事か成らざらん。群臣ともに信なくば。万事ことごとく敗れる。
「十七条憲法」の原本は見つかっておらず全文が書き記されている最古の書物は「日本書紀」である。今の歴史家の間には十七条憲法は日本書紀の編纂時に改竄されたものであるという説があり、それどころか聖徳太子不在説まで囁かれている。つまり「信」の字の使用を飛鳥時代まで遡ることができるかどうかはいまひとつはっきりしていない。
とにかく、人としてとるべき道の根本、善悪の判別の根拠はことごとく必ず「信」にあるべきだとされている。そして遅くとも日本書紀の書かれた時代には「善悪の判別の根拠」とまで意味づけられるようになる。どうやら大変な文字である。
漢字のふるさとの大陸では「信」の字をどう扱っているのだろう。
「人」と「言」の会意文字、字源は「人が口に出したことを守る」。転じて「口に出したことを守る人」に対する形容になった。
動詞で使う場合はまず日本語同様「信じる」、それから「言を守る」「実証する」「知る」とあり
形容詞では、「真実の」「正直な」「偽りの無い」などである。
名詞になると「盟約」「割符」「標識」「使者」「消息」「書簡」となる。
「信」は儒教の五徳にも数えられる「言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること」である。ここで注意して見れば「信」とは言明をする、真実を告げる、あるいは約束を守るその人間あるいは媒体にかかわる問題であり、告げられる「真実」とは別の存在として考えられていることがわかる。この五徳の「信」は十七条憲法のそれに代入して読んでもとりあえず意味は成す。
何かしらの情報を発する側と受け取る側の存在があってはじめて成立する語彙のようである。つまり「情報の発信と受信」である。
しかし、「十七条憲法」の口語訳では「信」は「まこと」とされている。
日本語のまこと、それは「ま―真」と「こと―事、言」からなるやまとことばである。「ま」さしき「こと」、本当の事、真実といってもいい。ただしこれは「情報の真偽」ではなく「事の真性」を語ることばであるため中国語でいうなれば「信」ではなく「真」に近い。したがって「情報のやりとり」をあらわす「信」の字に「まこと」を対応させることも、「善悪の判別の根拠」としてしまうのにはかなり問題がある。なぜこのような矛盾が起きてしまったかは現代人が「信」という言葉に抱く感情に原因がある。
ところで、「信じる」の影で忘れられていたかのような「信―のぶ」ということばに触れておくことにする。これは辞書によって「信」の訓読みとしているものとしていないものがあるようだが一般には「まこと」とならんで人名漢字の読みとして受け入れられている。しかしこれは、やまとことばの草創期から使われるれっきとした動詞の一つである。
「のぶ―述・陳ぶ」、口をついて出たことばがあたかも泥水を流したように水平に「のび―伸・延び」ひろがる様を現わしている。そして人の上に立つ者、たとえば司祭や大王の「のぶ」ることばは「のる」と美化され「のり―呪・祝・宣・憲・法」となる。
言葉を受け取る側はこれを「のむ―飲・呑む」のである。この語源もまた「のむ―伸・延む」であり、ことばがのび広がる現象の一環であることがわかる。これこそ「情報のやりとり」に近いことばであろう。
「信じる」は他動詞であるため必ず目的語をとる、つまり信じる対象が存在する。たとえば報道や評論などの言論、たとえば科学のもたらす研究結果、人、自分、金銭、権威、社会、未来、そして神、その他諸々をただの情報として受け取ることにとどまらず「まこと」と捉えてしまうことを「信じる」という。
やまとことばを話していた時代は「のぶ」と「まこと」は二つの全く異なる語彙であったが、大陸から輸入した「信」により一つに抱き合わされ、混同されたのである。
今日び、「信じる」ことの大切さや崇高さが高らかに謳われる。これはいわゆる美辞として使われている。しかし重きを置くべきはその対象に「まこと」が在ることの筈であり、そして「まこと」はそうはやたらに転がっているものではない。そこで「信じられる」ことを求める側はそこを突かれることを嫌うため自らに欠けた「まこと」を何かで補い激しく「発信」する。「信じろ」と発信するのである。彼らは「まこと」を装う方策に長けている。それに対し明らかに弱い我々は「信じぬ」ことを躊躇し、迷い、あらぬ「まこと」を見てしまう。それはやがて「妄信」につながる。
実は我々は信じるか否かをそのつど選んでいる。自らにとって喜ばしいことは受け入れ、そうでないこと、受け入れがたいことは拒む。情報と自らの願望の合体、これが「信じる」ことの構造である。
何かを信じることは安心につながる。大多数の意見を信じておけば社会から取り残されずにその恩恵に与れる。銀行を信じて貨幣を預けておけばいつの間にか増えてくれる。医者や薬を信じておけば痛みや病が進む恐れから逃れられる。惚れた相手の言うことを信じていれば傷つかずにいられる。大司教の説く神の言葉を信じていれば地獄に落ちない。信じる者はとりあえず救われるだろう。しかしその中に「まこと」が無ければ少しも報われないことになる。
信じたことが思い通りにならければまた別の何かを信じてみる。が、またしても当てがはずれ、それを繰り返すと経験的に疑うということを覚えるはずなのだが皆にできることではない。なぜなら我々の願望といというものは少しでも擽ればすぐに泡立ちいくらでも膨れ上がる。相手はそれをよく知っている。そして「信じろ」と、発信し続ける。
そうこうするうちに時は過ぎ、人は年をとり世も歳を経て今に至った。過去において信じさせる術をよく知っていた者たちの子孫、あるいは弟子たちが今のこの世で力を持つ者となった。そして今もなお、彼らを信じる我々がいる。
先祖たちにしてみればまるで与り知らぬ「信」の言葉は律令制とともに行き渡ることとなった。ではそれまでは何も信じることなく生きていたのだろうか。
「信じる」必要などなかった。巨石や巨木、地に山に海に宿る霊を、そして先祖の霊を「おそれ」「うやまひ」生きていたのである。こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。ちから溢れていたからだも霊が抜け出てしまうと物言わぬ骸となり朽ち果てる。そこには木の葉のように再び霊が芽吹くことはない。先祖たちはこの厳粛な「まこと」を見つめ、それに抗うことなく自らの願望を何かに結びつけることもなく、「まこと」をつかさどる霊たちをただただ畏れ敬い生きたのである。
疑う、それはなにやら後ろめたさの滲む言葉である。信じることを美化した故におこる反作用なのであろう、信じる者には光が当たり疑う者には影が落ちるような気がする。これは動詞「たがふ―違ふ」に「う」がついたものである。心に生じた違う理解同士が対立することをいう。似たような意味の動詞「うたぐる」も「たぐる―手繰る」に「う」がついて、事象を手繰り吟味することをいう。そこに「まこと」が在るかをつぶさに見つめる方法のことであり後ろめたさなどは元々は無い。
動詞に「う」を頂くと別の新しい動詞が生まれることがある。「う」は「得」すなわち「知る」を意味する可能性があるが、今のところ確証は無い。「うながす」「うがつ」などもそうである。
ことばとは時とともに姿かたちをかえて永らえる生き物である。人がことばを作る傍らことばは人をも国をも作る。言語の構造が国民性に反映することは明白である。現代日本語は明治維新から数えてたった150年の歴史を持つにすぎない。近世日本語はいまから400年前、中世のそれは800年前、中古は1100年前、上代日本語はおよそ2000年前からのものである。それより昔の古代語であるやまとことばは少なくとも2万年以上の間話されていたことばであるからには日本の国と日本人の心の礎を築いたのは実はどの時代のことばであるかは明白である。しかしその後に外来の言葉を喜んで受け入れ、それが我々の暮しに入り込んだことで急速な変化を強要された日本人はさまざまな副作用に苦しんでいる。
新語と呼ぶには古い言葉ではあるが、古語辞典を開いても「信」の文字は仏教用語と僧の名前を含めたところでそれほど多くは見られず、むしろ明治以降におびただしい量の「信」が熟語として頻出するようななったといえる。やはり明治以前は「信」を外来語に近いものとして扱っていたと考えられる。そして開国とともに我が国に押し寄せた科学・近代思想への「信頼」じつは「盲信」を煽るあざとさが「信」に感じられてならないのである。
「アナタハ神ヲシンジマスカ?」
青い目の神父さんにそう訊かれれば、「信じない」という他ない。
「まこと」をつかさどる存在を神と呼ぶのであれば、ひたすらそれを畏れそして敬うだろう。
近代や科学などと同じように信じていい筈はない。
コメント
01. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 20:47:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
こんばんわ。
拝読いたしました。
「負けないこと♪投げ出さないこと♪・・・・・信じること♪
・・・・それが一番大事。」
無条件に「良いこと」とされているような風潮ですね。
何かの対象を根拠もなく「信じてしまう」ことは「独断的」行為であるというラジニーシ師の言葉もあります。また、先ほど読み始めた正法眼蔵関連の本にも、禅は懐疑から入るとありました。
02. 2013年5月05日 22:02:51 : GloV5hQXnY
全面的に賛成。
「がんばればできる!」…できねーよ。
大東亜戦争かよ! 負けたじゃん!
ってことですよ。
03. あやみ 2013年5月06日 01:05:18 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
おやじさま、コメントありがとうございます。
信じる者は短期的には救われるんです。借金で借金を返済したり、痛み止めで凌いだり、ヘロインに手を出したりすれば「安らぎ」をその場で得られますがその先は地獄です。それによく似ているのです。
「信じる」という言葉から想像する画像があるとすれば、教会の天使像、いたいけな(金髪の)少女が祈る姿、空を見つめる子供たち、と、こんな感じだと思うのですが、なんかバタくさいんですよね。
懐疑するべきという考え方は、禅には前時代の密教への批判と反省があることも原因となっているのだと思います。
04. あやみ 2013年5月06日 01:12:09 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
02さま、賛成していただきましてありがとうございます。
何もかも前向きに、ポジティブに、信じあい、レッツゴー奈落です。
笑顔で暮らせば放射能も跳ね返すことができるという科学者もいるぐらいですからね。くわばら。
05. 2013年5月06日 03:40:01 : ZS7SKO0MFE
>こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。
こういうのを科学とか物理と呼んでいるんじゃない?一般的には・・・ 一般的にはw
“まこと学”に変えちゃおうか!
「信じる」きらいw 1qmOy4Hy0U
06. 2013年5月06日 08:30:07 : 5OXNt64MKI
キライなことば―「信じる」===============================
私は、つくづくソウ思っている者です。
というのは余りに信じて生きている人が多いからです。小泉を信じたままの人、小泉のことを悪くいうと「小泉さんは素晴らしい人なんだから批判してはいけないですよ」という人がいまだに沢山いる。その人は小泉構造改革から何か素晴らしいものを貰ったのだろうか。
でも明らかに、小泉改革により私の田舎町は財閥系工場企業城下町であるが、不景気が恒常化し、地域には空き店舗ばかりになりました。或るテナントビルのオーナーはビルが完成した途端に脳梗塞になり、ビルの一角に転がされていますが、ビル並びに隣の賃貸物件は空き室のままです。借金をして建てたビルを残された奥方、適齢期の子供達の人生を直撃していると思うけれども子供達、奥様は大の小泉ファンなのです。とても理解できません。
或る人に郵政選挙の時に其の危うさを指摘したところ、「郵便配達人が税金から1000万円以上の年収を得ているのは間違いだから」小泉が正しいと言った自営業者がいました。
其の人は今回のTPPについては、「反対するのは農業者だけ」と、モウ割り切っているのです。
其の人は車体板金業者で、小泉構造改革により、下請けしていた、ディーラー数社全社が外注を一切出さなくなり、従業員が全部辞めてしまわなければならなくなったのに全然気付かないのです。何度も騙されているのです。
私がこうして不信の哲学を語ると、強く反応する40歳年配の司法書士事務員さんが居ます。其の女性も独身ですが、地域にはとても沢山の独身女性従業員が居て、弁護士事務所など事務員さん郵便局窓口など独身女性が溢れていますが、相手になる独身男性は余り見当たりません。
この方達のこうした状況を齎したものが小泉構造改革であると私は信じていますが、其れを述べるとこの其の女性は「貴方がそんなこと心配しなくても政府、関係機関のリーダーが考えることです」と何かしら信じている姿勢を示すものだから面食らいます。
07. あやみ 2013年5月06日 11:09:13 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
1qmOy4Hy0Uさま コメントありがとうございます。
一般的には・・・です。
科学や物理のやったことは「まこと」の明文化・視覚化であり「まこと」を作り上げたわけではないのです。ですから科学そのものは信じて崇拝する対象などではないのです。
さらに科学の影の役割のひとつには「無難なまこと」の中に「とんでもない嘘」を混ぜてわれわれの前に掲げ、「どーだ信じろ」と恐喝することがあると思います。
08. 2013年5月06日 11:24:59 : oh5QCDFPcv
あやみ さん
安芸ガラスです。
>一般的には・・・です。
科学や物理のやったことは「まこと」の明文化・視覚化であり「まこと」を作り上げたわけではないのです。ですから科学そのものは信じて崇拝する対象などではないのです。
さらに科学の影の役割のひとつには「無難なまこと」の中に「とんでもない嘘」を混ぜてわれわれの前に掲げ、「どーだ信じろ」と恐喝することがあると思います。
上記は信の構造ですね。
私たちの頭の中の信の構造です。
同意します。
信は、信の中に判らないことがあるから成立します。
ですから、その判らないことを、自分自身が崩したときに、信は消えてなくなります。
09. あやみ 2013年5月06日 11:31:35 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
06さま コメントありがとうございます。
>「小泉さんは素晴らしい人なんだから批判してはいけないですよ」という人がいまだに沢山いる。
えええ!?
複雑な政治を理解しきるのは皆にできることではないとは思いますが、目の前に大矛盾が転がっているのに少しも疑いの念がおきないのは「信じる」ことに依存しすぎたせいで日本人の皮膚感覚が麻痺してるとしか思えません。
「割り切り」も、信じる者の常套手段です。信仰を成就させ「救われる」ためにそうするのでしょう。
10. 2013年5月06日 14:10:49 : FrpXTmA0eo
なるほど。
私も嫌いな言葉です。確かに 信じる はその風土や歴史に培われてきたニュアンスも付随される場合もありそうですね。
私自身はどのような場合に使うだろうか?と考えてみると、 自分の感覚を信じる、、だったら、使うかもしれない。
それでは、どういう場合に使うかというと、外界の状況と自分自身の間に融合できない、もしくは認める事のできない違和感を感じた時に 信じる という行為によって、自分自身をなんとか維持しようとする時かなあ。
1番さんの 「負けないこと♪投げ出さないこと♪・・・・・信じること♪
・・・・それが一番大事。」 個人的に凄く苦手な言葉、笑
スポーツなどで、劣勢になったときに、なんとか 信じて 実際の状況を有利に変えよう という時にこの 信じる 効果ありそうですね。 無人島でサバイバルするような場合には 有効かもしれない。笑
現実と自分自身の乖離を なんとか超えようとする時に自己暗示のように発動するのでしょうか。
自分をゴマカスときにも便利な行為なのでしょう。
ならば、信じようとする行為は、その状況、その対象によって崇高にも醜悪にもなるのかもしれません。
肝心な所は、信じるという行為が、自分自身の必然に基ついているか?もしくは、何かに誘導された結果の行為なのか?によって全くとがったものになるところでしょうか。
やはり、直感や、感覚で 自分自身で感じるという感覚が承認した場合以外の 信じる と言う行為は 誤摩化しだと思われます。
ン? 直感 や 感覚 が 生き生きと機能してる時には、信じる という行為が必要ではなさそうな気がする、、。
信じる といえば、 子供 は信じていてあげたい。存在そのまま丸ごと信じてあげたい。やはり、大きなものにゆだねる託す、、という深い意味があるのでしょうね。
こんなことを考える機会を与えてくれた あやみ さんに感謝します。
11. 2013年5月06日 15:50:01 : EWu9EfUwpM
言葉の意味は(発信者・受信者双方にとって)、例えば発信者が「バカ」と云う表現を使って「愛してる」との意味を伝えようとする場合が有る様に、それが置かれている文脈によって決まるので、「信じる」に対する違和感は「信じる」を取り巻く今日的環境への不信の表れなのでしょう。
「夢と感動を与える為に・・・」と高らかな宣誓を聞く度に、いつ頃からこの様な本末転倒な台詞が流行りだしたのだろうか、と、果てしない曇天を眺め続けているような気持ちにさせられますが、この不快感は「信じるに対する違和感」に低通するもののようです。
12. ねこてつ 2013年5月06日 16:29:56 : Tl9VvwRQnUnm2 : Yi0Ycw4bug
「信じる」というのは、思考停止と自己欺瞞の言葉だと思っています。
とりわけこの国のメディアと政府が言うときには特に。
13. あやみ 2013年5月06日 22:34:41 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
安芸ガラスさま いつもお世話になっております。
>信は、信の中に判らないことがあるから成立します。
ですから、その判らないことを、自分自身が崩したときに、信は消えてなくなります。
「判らない事」を外からたたみこむために「信じる」のですね。
「判らない事」のなかには「こうだったらいいなあ」「こうじゃなきゃだめだなあ」がかなりの比率で混ざっているように思えます。なぜなら、「判らない」だけならそのまま放置しておいても自分に危険はないのですが「こうじゃなきゃ困る事」はそうはいかないからです。
14. あやみ 2013年5月06日 22:58:01 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
10さま こちらこそありがとうございます。
>信じようとする行為は、その状況、その対象によって崇高にも醜悪にもなるのかもしれません。
そうですね、そうともいえます。行為自体は「食べる」や「飲む」と同じく単なる他動詞なので対象によって生命維持にも自殺行為にもかわるでしょう。しかし上に立つ者、たとえば施政者が国民を誘導するためにこの言葉を恣意的に使うようになったのがこの言葉の役割を決定付けたのだと思います。「何かに誘導された結果の行為」とおっしゃられる所以はここです。我々の「直感・感覚」はすでに萎えさせられており、それすらなにかに誘導されることもあると思うのです。残念なことです。
私にも子供がたくさんいます。
子供はかわいい。しかし嘘もつけば、子供ながらに残酷なところももちろんあります。しかしそれを承知で「信じよう」としてしまうと子供の犯す過ちまでも肯定してしまいかねません。ここで親たちは更なる過ちを上乗せしてしまいます。
おっしゃるように「存在そのまま丸ごと」を「受け入れる」しかないのです。「信じる」と似ていますが、本質は違うと考えます。
15. あやみ 2013年5月06日 23:54:22 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
11さま コメントありがとうございます。
「バカ」≒「愛してる」は、もう不文律といいましょうか、決まり文句ですからね。受信側の「信じる」が発信者の「信じろ」に呼応するという関係に共通点していそうですね。
ただ世の中あまりに複雑になりすぎて、これは単なる送受信の問題にとどまらなくなりました。善か悪かの二元論に陥りやすいという欠点を利用し、まず「不信」を生成してその対極にあるものを信じさせる、時が来ると別の不信を作り上げてまたその対極に…と、それを繰り返された挙句、我々の「まこと」とするべきだったものが見えなくなってしまったのではないでしょうか。これを不快感と感じられるうちはまだ生き返ることができる、と思います。
16. あやみ 2013年5月07日 00:04:43 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
ねこてつさま コメントありがとうございます。
政府が発「信」者、メディアが通「信」媒体、我々が受「信」者です。
「信じろ〜」→「「信じろと仰せじゃ〜」→「へへ〜っ」です。
発信者は米国政府だったり、国連だったり、WHOだったりもしますね。

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