<資料編です。
流れのわからない方はこの下にあるレス
「死の商人」よりも奥深い何者か−それが「エージェント」を先に見てください。
日本の内戦で使われた武器とアメリカ南北戦争の接点を探しているうちに
興味深いものを見つけました。>
死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネル
戦争には、当たり前ですが武器の需要があり軍需関連の商売が活発になります。そして武器の斡旋をする「死の商人」が現れます。戊辰戦争頃には、対抗する東北諸藩と西南諸藩に肩入れした死の商人がおりました。
懐旧談(益田孝男)に、「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった。本国に立派な根拠を持った商人はいなかった。オリエンタル・バンク、ホンコン・シャンハイ・バンク、ジャーデン・マジソン、ネイズルランド・トレーディング・カンパニー。この四つの外は皆食い詰め者ばかりのやうであった。諸藩に武器や船などを売込むのが商売で、茶や生糸の商売を大きくやるやうになったのは、余程後のことである。」
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資料編 パート2 死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネル投稿者 Q太郎 日時 2004 年 1 月 22 日
ものの本によると、亜米三といわれたアメリカ三番館のR・スミスや蘭八と言われたオランダ八番館のヘッセ・リリアンタル、それに日本語が達者と言われる楠正兵衛ことイギリスの横浜甲九十番の総支配人ウォーターらが武器で大いに儲けた口のようです。
現在、手元にある資料では、主な死の商人として、東北諸藩にはスネル兄弟、西南諸藩にはトマス・B・グラバが目につきます。グラバは長崎のグラバー邸で有名ですが、スネル兄弟は残念ながらあまり知られていないようです。
懐旧談では「其頃日本に来ていた外国商人は、皆な大したものではなかった」とありますが、スネル兄弟、トマス・B・グラバは単なる「死の商人」として片づけられないものがあるようです。
彼らの「死の商人ぶり(軍艦、武器等の取扱量、売り込み方法など)」がどの程度だったのか、興味がありますが、このお話は別途としまして、このページでは、彼らが「単なる死の商人」ではないと言われる面を集めてみました。
まず、スネル(シュネル)兄弟から始めますが、まだ分かっていないことが多々あるようで、参考資料@では、兄のヘンリー・スネル(平松武兵衛)と弟のエドワード・スネルの二人が出てきます。二人兄弟のように思えます。
参考資料Aでは、兄のエドワード・スネル(新潟の山木商会、アカハネ・スネル、平松武兵衛)と弟のコンアート・ガルトネル(箱館の商人でかつプロシャ領事)、そしてエドワードの兄(名は不明)がいたようです。三人の兄弟が日本へ来たのです。
日本名平松武兵衛を名乗ったのがヘンリーなのかエドワードなのか特定できませんので以下、平松武兵衛とします。
高嶋米吉氏の調査(参考資料@)によると平松武兵衛はヘンリーのようです。
この平松武兵衛の印象を米沢藩士甘粕継成が文書で残しております。
「時にスネル、深く米会(米沢、会津)の義挙を悦び、専ら尽力する心得にて髪をきり、日本製の袴、羽織を着し姓名を改めて平松武兵衛と称する。…・そもそも平松年頃三十歳前後、眉目清麗、会老侯(松平容保)より賜りし小脇差を帯し来る。実に一箇の美男子なり」。
彼は会津に屋敷を買い、日本人女性を妻にしたのです。そして、越後方面軍の軍事顧問に就任しております。そしてもう一つ、戊辰戦争の終わり以来、姿を消していたエドワードかヘンリーが明治二年四月、アメリカの新聞に登場するのです。
彼はサンフランシスコの北東、アメリカン・リバーに近いエルドラド郡コロマ村で農場建設に励む日本人移民の指導者として紹介されています。この日本人移民は会津藩士たちだと言われております。やはり「単なる死の商人」ではないのです。
さて、もう一人の有名なトマス・B・グラバーですが、薩摩や長州という西南諸藩を主な取引相手としておりまして、これもまた、日本人女性を妻としております。
その名を「ツル」と言いましたが、このツルさんは、有名なオペラ「マダム・バタフライ」の蝶々夫人なのです。グラバーは長崎の欧米人のための英国教会の建設、日本人専用の教会建設(出島に建設)、出島の長崎聖公会神学校建設など多大の協力をしております。
トーマス・グラバーは「営利の商人」でありながら、「信念の実現のためには営利の範囲も逸脱せざるをえなかった」と記録にあるようです。
彼は武器の需要がある前から商売をしていたことでもあり、「単なる死の商人」として片づける訳にはいかないでしょう。
それにしても武器の調達が容易なご時勢であったのです。
文久元年(1861)に始まったアメリカの南北戦争が文久3年、ゲティスバーグの決戦で北軍が勝利して終わりましたが、用がなくなった武器が日本へ流れ込んできて、戊辰戦争に「活用」されたのです。
参考史料:@幕末に踊った死の商人 歴史への招待 NHK、幕末・維新の日本(近代日本研究会、年報 1981)、Aやまがた幕末史話、グラバー夫人(野田平之助)等
<そしてもう一つの謎。坂本竜馬です。このエッセイを書いた人も
リーマンさんとすみちゃんの行き当たった疑問にたどり着いた様子。
岩崎弥太郎はかなりあやしい。>
http://homepage1.nifty.com/jshoda/jshoda/essay/essays37.htm
No.38 密約・薩長同盟の素地、そして坂本龍馬の斡旋開始
慶応元年(1865)5月1日、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大山彦八そして坂本龍馬、高松太郎らが薩摩藩船胡蝶丸で鹿児島に入りました。彼らは薩摩の藩論を第二次征長阻止にまとめるためでした。
鹿児島滞在中、坂本龍馬は西郷隆盛や小松帯刀の家にやっかいになりながら、第二次征長阻止の具体策である薩摩藩の征長出兵拒否、そして薩長和解を議論したようです。
薩摩藩の征長出兵拒否は薩摩藩内の決定事項ですから、第三者がとやかく言う筋合いのものではありません。しかし、薩摩と長州の和解はしかるべき第三者の仲介が要求されます。
ここに第三者としての坂本龍馬の出番がありました。
鹿児島を離れた坂本龍馬は筑前太宰府の延寿王院にて三条実美に謁見し薩長和解策を説いております。
なぜ薩長和解策をとらなければならないのかは別途としまして、この時から、坂本龍馬が公然と薩長和解に乗り出したようです。
東久世通禧(みちとみ)が坂本龍馬を「偉人なり、奇説家なり」と驚いておりますから、坂本龍馬の薩長和解策はセンセーショナルなものだったと思います。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
また、第二次征長阻止に関連して、半年ほど前に薩摩の西郷隆盛は、征長軍の解兵後に五卿を福岡藩に移すという妥協案で長州を納得させたようですから、薩摩は五卿の取扱、第二次征長阻止を通じて長州藩の救済にあたっていたのでしょう。
薩摩と筑前太宰府の意向を把握した坂本龍馬は、下関で病気静養、それから備前に寄り、慶応元年(1865)6月24日京都に入ります。
京都で坂本龍馬は、長州藩が幕府の再征に備える武器購入を希望していることを西郷隆盛らに伝え、薩摩藩名義で長州藩のための外国製武器購入が承諾されております。
すなわち薩摩藩名義で英国商人グラバーから銃約7000丁を購入し、長州へ融通することが決まりました。
坂本龍馬はどこから長州藩の武器購入の情報を得、確認したのか、坂本龍馬の情報ネットワークが知りたいところです。
坂本龍馬と西郷隆盛らの間で長州藩のための武器購入がまとまりましたが、これを長州へ報告する使者が三条卿衛士楠本文吉でありました。
筑前太宰府チームの人間がここにも出てきます。仲介役としてうってつけの第三者の役割に筑前太宰府チームの人間が有効に働いたようです。
そして、慶応2年(1866)1月21日、薩長同盟が成立しました。
この同盟は一部の関係者しか知らないのです。
薩長同盟は密約です。一部の権力者による密なる約束です。密約でも動く政治システムがここにあります。
「俺は聞いてなかった」と言う藩内の異論者を力で押さえる、あるいは上意を利用して押さえることにならざるを得ないと思います。
いつの頃か薩長同盟の芽が出て、発芽の後、筑前太宰府で大きく育ったようです。そして、坂本龍馬によって、実利を伴って具体的になったと言われております。
文久3年(1863)8月18日のクーデターの頃は薩摩と長州は犬猿の仲なのですが、それから3年ほどの短い間に密なる同盟を組むのです。
長州藩には、背に腹は替えられない事情(第二次征長への対応策)があったのですが、薩摩には同盟に関してどんなメリットがあったのでしょう。
東北諸藩においても会津・庄内藩の密約があり、会庄同盟と言われますが、この二つを比較して勝者と敗者について考えてみるのも面白いかもしれません。
7/11/12

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