人間の欲や競争心や優越感情は、悪いものではなく、活動力の基本的支えだと思っています。
その発現がどのような枠内で認められるかということで、よりましな社会になるのか、より酷い社会になるのかの違いが生じると考えています。
今という時点で言えば、利潤を得ることを国家が善として認めるか、それとも、利潤獲得を非として排除するかで、社会ががらりと変わります。
「人間の欲や競争心や優越感情」を利潤獲得に向けることができなくすることで、自然と人々の活動様式は変わります。(そのために、聖人君子的倫理観を求める必要はありません)
逆に言えば、国家が利潤獲得を許容したことで、善し悪しの判断は別として、近代的な活動様式が普遍化していったのです。(国家がそれを許容した背景は、ある層の利潤獲得欲求に応えたものであったり、そうなしなければ対抗上生き残れないと考えた結果など様々でしょう)
今必要なのは、理想社会を追求することでも、人々に高い倫理観を求めることでもありません。
必要なのはただ一つ、使われない利潤を抱え込むことを許し続ければ、国民経済はさらに疲弊し、国民生活は徐々に崩れていくという論理的な認識を持つことだけです。
その了解が多数派になれば、「利潤なき社会」で書いたような仕組みをつくらなければ対応できないという方向になると考えています。
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【「近代」から一歩先を見据えて】 「利潤なき経済社会」に生きる 〈その1〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 31 日
■ 「利潤なき経済社会」とは
現状の日本は誤った政策により既にそれに近い状況にあるが、それほど遠くない将来に、合理的な政策を採っても国民経済としては利潤がない状況が訪れる。
そして、世界経済(国民経済の総和)レベルでも利潤がない状況が訪れる。
利潤がないと言っても、国民経済レベルの話だから、個別経済主体や個人が“存在しない利潤”を追求することは現状と同じようにある。
しかし、それで得たとする利潤は、正味の利潤ではなく“通貨の移転”であり、利潤を得る人がいれば、それに相当する損失を被る人たちがいるというものになる。いわゆるゼロサムである。
国民経済が“通貨の移転”ではなく正味として得る利潤は、他の国民経済から輸出(貿易黒字)や国際金融を通じて得る通貨(基軸通貨ないし金)だけである。
これ以外に、“通貨の移転”ではなく、正味の利潤と言えるものはないのである。
正味の利潤も、ある国民経済の利潤に相当する損失を被る別の国民経済が存在するということであり、世界レベルではゼロサムである。
このような認識がないまま現状のシステムや価値観で歴史(経済活動)が進んでいけば、国家内も、国家間でも、とてつもない災厄と抗争が発生することになる。
戦後日本は、「高度成長期」に国民経済が利潤を得られる体制を築き、以降、経常収支の黒字というかたちで利潤を上げ続けてきた。
だからこそ、“通貨の移転”による利潤があっても問題化することなく、多くの経済主体が利潤を上げ続け、経済的国民生活も向上していったのである。
「高度成長期」の高い経済成長率は、利潤によってもたらされたものではなく、「労働価値」(生産性)の上昇によってもたらされたものである。
「高度成長期」は、「労働価値」を上昇させるための生産設備の更新や規模の拡大を行うための資金として、いわゆる利潤だけでは足りず、借り入れや増資が必要だった。
このような投資活動と生産活動の拡大的リンクが、年率平均10%という高度成長の原動力であり、それを支えたのが輸出の増加である。(完全雇用状態にあったので、規模の拡大を「労働価値」の上昇に依存するしかなかったことが、「労働価値」上昇=国際競争力をより高めた)
経常収支の黒字基調転換は高度成長が終わった70年頃で、それは、国民経済として利潤が得られるようになったことを意味する。
そして、利潤が得られるようになったと同時に、成熟期(低成長期)を迎えることになる。
戦後日本の経済史を振り返れば、利潤が経済成長の推進力ではなく、「労働価値」の上昇こそが経済成長の推進力であることがわかる。
利潤がないと言っても、驚くべきことでも、困ったことでも、不都合なことでもない。
利潤は、経営学的なものではなく“しまい込む儲け”と考えればわかりやすく、自宅の金庫に積み上げているお金を眺めてほくそ笑む人が求めるものだとイメージすればいいものである。
預金通帳に打刻されている数値を見てほくそ笑む人は、その数値に相当するお金が、既に、企業に貸し出されていたり、国債購入に使われたり、地上げ資金として使われるなどして、運(政策)が悪ければ戻ってこない可能性もあることを知らないだけの話である。
(現在の金融危機の根源は、自分は預けているだけと思っているお金が銀行によって既に使われてしまっており、それがきちんと戻ってきていないことにある。たんに預けるのではなく、使われることを承知で預託するのであれば、リスクを承知で預ける人もいれば、リスクを避けて預けない人もいるという“自己責任”の世界である。だから、高度成長期には貯蓄を奨励していながら、今になって経済システムを知らない人の預金をペイオフするのは当然だというのは無責任な政策である)
違う側面から言えば、国民経済に存在する通貨が高度成長期のように投資や消費に使われずに、いわゆる金融取引に使われ続けるのも“儲けをしまい込んでいる”ことである。
現状の「デフレ不況」は消費不振が原因のように言われているが、経済主体の(再)資本化が、失業者の増加に如実に現れているように縮小されたり、償却済み設備の更新や海外製造拠点に対するものになっていることが起因である。(預貯金を抱える銀行も、運用難に陥っており、厖大な借り換え債も発行されている国債に向けられている。借り換え債は、新規国債と違って、GDPの拡大に貢献しないものである)
「近代経済システム」ではほとんどの人が雇用を通じて通貨を得て生活していることからわかるように、始源的要因は、経済主体の資本活動が低迷しているから消費不振に陥っているのであって、その逆ではない。それから起きる消費不振がさらなる経済主体の資本活動の低落を促すために、「デフレスパイラル」が進行しているのである。
この間もいろいろ書き込みをしてきたが、経済主体の資本活動低迷が「デフレ不況」の始源的要因であることを理解しないと、債務をさらに増やしても財政出動すればいいとか、お金を持っている老人が消費に走ればいいという需要サイドの解決策を求めるようになってしまう。
(公的債務は民主制であるが故に30兆円も新たに積み上げているが、それさえ無謀だという財政状況になっており、老人が相続に回るお金がなくなるように消費してもその時点で“下支え”は終わってしまう)
「デフレ不況」で利潤が得にくい状況なのだから、経済主体の資本活動が低迷するのも当然である。
日本経済は、経常収支が10兆円ほどの黒字だから利潤は得ている。
その利潤が、国内で拡大的再生産に使われていないために、「デフレ・スパイラル」に陥っているのである。
経済学も説くように、企業(経済主体)の活動動機(目的)は利潤の獲得である。
利潤が得られないと判断すれば、企業は、新たな資本化(投資)を行わない。
だからこそ、「利潤なき経済社会」では、「近代経済システム」が有効に機能せず、経済学も通用しない。
市場主義をいくら唱えようと、経済主体が市場システムを使う目的も利潤の獲得にあるのだから、利潤が得られない経済条件では無効になる。
■ まず必要な価値観の転換
「利潤なき経済社会」と「利潤獲得を目的とした経済活動」は、まさに矛盾するものであり、一つの社会のなかでは両立し得ないものである。
となれば、経済活動も終焉を迎えるのかと言えば、それは国民あげて生存を放棄することを意味するからあり得ないことである。
では、何を目的として経済活動を行えばいいのかという問いが生まれる。
今でも個々人の経済活動が経済学的目的ではなく様々な“目的”であるが、国家=共同体が基礎とするもしくは許容する目的は、それなりに統一されたものでなければならない。
問いの答えにはならないが、「経済活動が目的ではなく手段になる」必要があると考えている。
経済活動が国家の目的ともなり、その経済活動が利潤獲得を目的としたものであるという現状から、「経済活動は共同体=国家の成員ができるだけ快適に生きて死んでいくための手段である」との認識=価値観が共同体=国家の意志にならなければならないと思っている。
そして、経済活動が残るように、市場も残る。
市場とは、個々人の活動力を交換する仕組みであり、家族や地理的に狭い共同体が自給自足の経済活動を行っているのなら別だが、直接的には目に見えない他者の活動力に依存しなければならないのであれば不可欠のものである。(自給自足的な経済生活を否定するわけではない)
市場はそういう機能でしかなく、機能でしかない市場を崇拝する市場主義的価値観は、インターネットという仕組みを崇拝するようなものである。
利潤追求を目的とする経済活動が手段に“転落”することで、新しい経済システムが生まれ出るのではないかと夢想している。
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