朝鮮中央通信社は21日、朝鮮が核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言するまでの経緯と関連した詳報を発表した。その全文を2回にわけて紹介する。
朝鮮政府は、米国とその追従勢力の横暴非道な対朝鮮核圧殺政策により、わが国家の安全と民族の自主権が脅威にさらされている重大な事態に対処して最近、核拡散防止条約(NPT)から直ちに脱退するとの重大な措置を取った。
朝鮮中央通信社は、共和国政府がNPTからの脱退を宣言するようになった経緯に関して次のような詳報を発表する。
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朝鮮中央通信詳報〈1〉―NPT脱退までの経緯 [朝鮮新報]投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 03 日 20:58:59:
NPT加盟の経緯
わが国がNPTに加盟した目的は、米国の核脅威除去とともに、より大切なことは、原子力エネルギーで国の電力問題を円滑に解決するところにあった。
われわれは早くから、増大する人民経済の電力需要を解決するため水力発電能力と火力発電能力を積極的に開発してきたが、これはその潜在力において制約のあるものであった。
したがってわれわれは、わが国の電力問題を解決する最善の方途として原子力エネルギー工業を発展させることを決心した。
これに伴いわれわれは、1974年に原子力法を採択して原子力を平和的目的にのみ利用するよう法律で規定した。
われわれは、わが国の原子力エネルギー工業を発展させるための科学研究を推進する一方、外国から原子力発電所を購入するための努力もしてみた。
それは当時、原子力発電所の世界的すう勢が、低レベルの濃縮ウラン燃料に基づいた軽水炉発電所で、高度の技術を要するので自力で設けるには及ばなかったからである。
われわれは、軽水炉を輸入してわが国の電力生産の基本にすることを決め、一部の先進国と交渉した。
しかしこれはスムーズに行かず、どの国もわれわれに軽水炉を輸出しようとしなかった。
1960年代と70年代に原発設備を輸出する国としては、旧ソ連と米国をはじめとする西側諸国と西欧の一部の国だけであった。
われわれはまず、カナダ、スウェーデン、フランスなど西側諸国から先進的な軽水炉を購入しようとしたが、米国の「COCOM」(対共産圏輸出統制委員会)による妨害で実現できなかった。
それでわれわれは、技術発展水準において西側諸国の水準には至らなかった旧ソ連と軽水炉購入問題を交渉した。
当時、ソ連はわれわれが核関連技術を取得するためには、NPTに加盟し国際原子力機関(IAEA)と保障措置協定を締結してこそ可能だと伝えてきた。
われわれは、NPT加盟の問題を慎重に検討した。
とくに、核兵器保有国が核兵器で他国を威嚇したり、核兵器を使用してはならず、非保有国の根本利益を危うくする非常事態を起こしてはならず、核戦争を避けるため努力の限りを尽くすとするNPTの基本精神は、国土が分断された状況のもと、米国の核脅威にさらされているわれわれに当然な関心を抱かせた。
われわれは、原子力エネルギー工業分野における国際的協力も実現すると同時に、われわれに対する核脅威を除去し、朝鮮半島を非核地帯化する目的から1985年12月12日、NPTに加盟した。
保障措置協定締結の遅延経緯
NPTによって非核兵器締約国は、条約加盟後18カ月内にIAEAと保障措置協定を締結することになっている。
しかし、条約加盟後も米国がわれわれに対する核脅威を引き続き増大させたことにより、NPTによる保障措置協定を締結したくてもできない重大な事態に直面することになった。
米国は、核兵器保有国としての国際法的義務に乱暴に違反して南朝鮮に各種の核兵器を大量に搬入し、われわれに反対する核戦争演習である「チームスピリット」合同軍事演習をエスカレートさせた。
われわれは、保障措置協定締結のため南朝鮮からの核兵器撤収、われわれに対する核脅威の除去、われわれに対する法律上の安全保障の公約、同時査察などを米国に求めた。
われわれが提起した主張が正当なものであり、これを支持する国際世論が拡大すると、米国はついにわれわれの要求に応じた。
91年1月17日、米国務省の次官補代理は、米国が「北朝鮮に対して核脅威を与えない」し、米国の核兵器不使用保証は「朝鮮を含むすべての非核締約国に適用される」とのべた。
91年9月27日、米大統領ブッシュは、米国の地上・海上基地から短距離戦術核兵器を撤収すると発表した。
91年11月8日と12月18日、南朝鮮当局者(盧泰愚)が、「非核化宣言」と「核兵器不在宣言」を発表した。
92年1月7日、南朝鮮「国防部」と米国防総省、「韓米連合軍司令部」が、「チームスピリット」合同軍事演習の中止を共同で宣言し、92年1月22日、朝鮮と米国間の高位級会談が行われた。
米国と南朝鮮が口頭上の約束をしたことから協定締結の条件と環境が整ったとみなし、われわれは92年1月30日、IAEAと保障措置協定を締結した。
朝鮮最高人民会議第9期第3回会議では、92年4月9日、「NPT寄託国のどの国も朝鮮半島に核兵器を展開せず、われわれに対して核脅威を与えないということを前提に」保障措置協定を承認し、その翌日の4月10日、このことについてIAEAに通告した。
これにより、われわれとIAEA間の保障措置協定は、92年4月10日から効力を発生することにった。(朝鮮通信)
[朝鮮新報 2003.1.30]
朝鮮中央通信詳報〈2〉―NPT脱退までの経緯 [朝鮮日報]
NPT脱退宣言の経緯
われわれとIAEAとの保障措置協定が締結された後、米国はわれわれの黒鉛減速型原子炉とその関連施設における核活動に対する「疑惑」説を流し「核危機」をつくり出した。
われわれが黒鉛減速型原子炉を選択するようになった理由は、次のとおりである。
われわれのNPT加盟以降、1985年、われわれと旧ソ連との間で原発を建設するうえで経済的・技術的協力を行うことに関する協定が締結された。
それによると、旧ソ連がわれわれに電力が635メガワットの加圧軽水型原子炉3基をもつ原発を納入し、1990年代末に年ごとに1基ずつ操業することが予見されていた。
しかしこの協定は、原発建設のための敷地調査を行うにとどまった。
それでわれわれは、われわれの方式で生きて行くため、われわれの実状に合う原子力産業の創設を政策化して公開し、原子力エネルギー工業技術の開発に取りかかるようになった。
主体的な原子力エネルギー工業を建設するうえでわれわれは、国の工業土台と技術水準、そして今後形成しようとする核燃料循環システムを総合的に考慮に入れて原発の類型を「天然ウラン―黒鉛減速―炭酸ガス冷却型の原子炉」に選定した。
この類型を黒鉛減速型原子炉という。
黒鉛減速型原子炉とは、天然ウランを燃料にして黒鉛を減速剤とし、炭酸ガスを冷却剤として使うものである。
われわれが黒鉛減速型原子炉を選定することになったのは、これが軽水炉より技術的・経済的面や安全性において立ち遅れてはいるものの、技術的に単純で少い資金と労力を要する天然ウランを燃料とし、またわが国が1930年代から人造黒鉛工業を有していたことから、黒鉛精製技術だけを補充すれば原子炉の減速剤に使われる黒鉛を容易に得られる有利な条件があったからである。
より重要なのは、わが国にウランと黒鉛が豊富に埋蔵されていることである。
従ってわれわれは、原子力産業を発展させるにあたって外国の原料資源に頼らなくても、わが国に豊富な原料資源とわれわれの技術によってそれを発展させるため、黒鉛減速型原子炉を選択することになった。
われわれは、これまで保障措置協定による義務を誠実に履行した。
われわれは、同協定第42条と第62条に従って1992年までIAEA事務局に送ることになっている核物質の初期在庫に関するレポートと核施設の設計に関するレポートを期限をはるかにくり上げて5月4日に提出した。
1992年5月11日から16日まで、事務局長を団長とするIAEA代表団の訪朝を実現させ、彼らの要求するすべての核施設と疑念をもつ対象を見せた。
われわれは、6回にわたる特定査察団の活動に積極的に協力した。
こうして、第1回査察は1992年5月25日から6月6日まで、第2回査察は1992年7月7日から20日まで、第3回査察は1992年8月31日から9月12日まで(2つの「疑惑対象」への訪問は9月12、14の両日)、第4回査察は1992年11月2日から14日まで、第5回査察は1992年12月14日から19日まで、第6回査察は1993年1月26日から2月6日までの間に行われた。
ところが、米国とそれに追従したIAEA事務局の一部の階層は、NPTとIAEAとの保障措置協定による査察を共和国の内部を探り、われわれの社会主義制度を圧殺する策動に悪用した。
わが国に対するIAEAの査察は最初から、IAEA規約と保障措置協定によってではなく、米国のコントロールによって行われた。
同協定第5条には、他国の核施設に対する査察過程で得られた一切の資料は徹底的に保護する義務が指摘されている。
しかし、IAEA事務局の一部の階層は、わが国に対する査察資料を系統的に米国に渡し、米国はIAEAがねつ造した「不一致点」なるものを口実にわれわれの軍事対象に対する「特別査察」を持ち出して朝鮮半島の核問題を複雑にした。
われわれの核関連施設に対する査察過程で生じた「不一致点」なるものが、すでに科学的、技術的にはっきりと解明されたにもかかわらず、IAEAが米国の提供した情報資料に基づいてわれわれの「2つの対象」に対する「特別査察」を求めたのは、あくまでも米国のコントロールによるものであった。
それは、米国が1992年7月22日、米議会下院「合同公聴会」にIAEA事務局長を出席させ、われわれの核計画に対する報告を受けるとともに、事務局長にわが国に対する「特別査察」「抜き打ち査察」を行うよう強要したことをみてもよく分かる。
また、当時の米中央情報局(CIA)が国家安全保障会議(NSC)に提出した報告書には、「当面して米国は、北朝鮮に特別査察を受け入れるよう誘導し、核査察結果に基づいて対北朝鮮政策を樹立しなければならない」と指摘されている。
米国は、ありもしないわれわれの「核開発疑惑」をうんぬんし、IAEA事務局の一部の階層と加盟国を操って1993年2月、IAEA理事会で核活動とは何の関連もないわれわれの軍事対象に対する査察を強要する不当な「決議」を採択するようにした。
この軍事対象について言うなら、保障措置協定による核施設とは何の関連もなく、それに対する査察はIAEA権能に基づく問題でもなかった。(朝鮮通信)
[朝鮮新報 2003.2.3]
朝鮮中央通信詳報〈3〉―NPT脱退までの経緯 [朝鮮新報]
われわれが、米国のねつ造した「情報資料」に基づいたIAEAの不当な査察をそのまま受け入れるのはとりもなおさず、われわれの交戦一方である米国のスパイ行為を合法化することであったし、国が分裂しており、それに米国の恒久的な核脅威にさらされているわれわれの特殊な状況下で、軍事基地を敵に開放するというのは、とうてい想像すらできないことであった。
これは、わが共和国の自主権に対する乱暴な侵害であり、われわれを武装解除させ、われわれの社会主義制度を圧殺しようとするものであって、わが国の最高利益を脅かす非常に深刻な軍事的・政治的問題となった。
米国とその追従勢力によって人為的にねつ造された「決議」は、反共和国圧殺策動の一環として、国際法上の見地からみても、科学的・技術的見地からみても正当化されないものであった。
米国は、IAEAの不当な「決議」が採択されたのと時を同じくして、すでに中止していた「チームスピリット」合同軍事演習を再開し、またしてもわれわれの自主権と生存権を重大に脅かした。
結局、1980年代中葉からNPTに加盟し、保障措置協定を締結することによって国の電力問題を解決するための原子力エネルギー工業を発展させ、朝鮮半島に対する核脅威を除去しようとしたわれわれの努力は米国によってそのつど挫折した。
1990年代にわれわれが経済的難関に直面するようになったのも、もとを正せばこれに起因しており、われわれは、米国が対朝鮮敵視政策を放棄するまでは朝鮮半島の平和と安全問題はもとより、わが国の経済発展も制約を受けるということを確信した。
当時、われわれの要求によって朝米間に「核問題」をめぐる会談も行われたが、長期にわたって存在してきた両国間の敵対関係と不信によって、会談は物別れに終わった。
われわれは国際的に核兵器の拡散を防ぎ、平和的な原子力エネルギーの利用を保証する神聖な目的と使命を帯びているNPTとIAEAがわれわれとの関係において、われわれの制度をなきものにしようとする米国の不純な政治目的の実現に盗用されていることに最大の警戒心をもたざるを得なかった。
われわれはそうした事態に対処して、国の自主権と安全を守るため準戦時態勢に入り、自己の最高利益を守るため1993年3月12日、NPTから脱退する措置を取ることになった。
NPT第10条には、各条約加盟国は自国の最高利益が脅威にさらされる特殊な事態が生じた場合、この条約から脱退することができると明白に規定されており、従って、この措置は誰も否定できないわれわれの合法的権利の行使であった。
われわれは1994年6月10日、IAEA理事会で「核問題」にかこつけて軍事対象に対する開放を求め、われわれに対する「IAEAの協力を中断」するという「決議」が採択されたことで6月13日、IAEAから脱退する措置を取った。
この時からわれわれと関連するIAEAのすべての不当な「決議」は効力を失うことになり、われわれはIAEAのいかなる規定や決定にも拘束されなくなった。
われわれの特殊地位
われわれのNPT脱退声明が発表されるなり、世界は米国の専横によって朝鮮半島が一触即発の危険な情勢に直面したことに深刻な懸念を表し、朝鮮半島の核問題を平和的に対話と交渉の方法で解決することを求めた。
朝鮮半島で戦争ぼっ発の危険を防ぎ、地域の平和と安定を保障しようとするわが共和国の真しな努力と世界の平和愛好人民の強力な要求によって、米国は朝鮮半島の核問題を平和的に解決するための交渉の場に臨まざるを得なかった。
数回にわたる朝米交渉を通じて1993年6月11日、朝米共同声明が採択された。
共同声明で米国は、われわれに核兵器を含む武力行使をしないばかりか、脅威も与えず、われわれの自主権を尊重し、内政に干渉しないことを公約し、われわれはNPTからの脱退効力を必要と認める限り、一時停止させることにした。
このようにしてわれわれは、NPTとの関係において特殊な地位に置かれるようになった。
保障措置協定について言えば、それはNPT第3条第4項によって結ばれたものであるので、それはわれわれとIAEAとの間に特別な合意がなされない以上、条約脱退と共に1993年6月12日から事実上、法律的には効力が停止された状態にあるのと同じであった。
従ってわれわれは、保障措置協定による全面査察ではなく、査察の継続性保障のための査察だけを受ければ済むことになっていた。
米国とIAEA事務局も、われわれのこうした特殊地位を認めた。
1993年12月10日、米国務省東アジア・太平洋担当のトーマス・ハバード次官補代理は、「米国は、NPT脱退効力を一時停止したことによる朝鮮側の特殊な地位に対して理解を表する」とした。
IAEAのハンス・ブリクス事務局長は1994年3月24日、国連安全保障理事会にわが国に対するIAEAの3月の査察結果を報告し、「朝鮮民主主義人民共和国は特殊な状況にあるので査察の継続性を保障する必要性しかない、そうした意味から1993年5月と8月に監視機材のビデオテープとバッテリーの交替のためのIAEAの査察を受け入れた」と指摘した。
これは、査察の継続性保障に向けた査察が保障措置協定上の通常・特定査察ではなく、同協定による査察が凍結された1993年2月以来、われわれの核物質が流用されていないことだけを確認するための査察の継続性保障査察であることを認めたものである。
[朝鮮新報 2003.2.3]

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