「大学とは、一見無駄に見える知識を幅広く身につけ、思考の基礎体力を獲得する場であるべきです。」
憲法・軍備・安全保障
toriiyoshiki氏のツイートより。
https://twitter.com/toriiyoshiki
ぼくはむろん憲法学者ではないし、憲法について学んだのは40年以上の遠い昔だ。
しかし、いま権力を行使する側からトンデモ解釈が流布され、あまつさえ近代憲法の大前提を無視した改憲案が提示されている現状のなかで、もう一度日本国憲法の大前提に立ち戻る必要を痛感している。
ぼくの遠い記憶をたどれば(学生時代に受けた講義を思い起こせば)、近代憲法の基本は人間なら誰でも(外国籍であろうと)等しく持っている「天賦人権」の尊重と、権力の行使に対抗する「◯◯の自由」だ。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。応援よろしくお願いします。
憲法の基本は国家権力を縛ることにあり、国民の国家に対する貢献を義務付けるものではない。
その近代憲法の基本の上に、日本国憲法は一歩推し進めた二つの概念を付け加えた。
ひとつは社会的自由であり、これは権力に対する「自由」ではない。
「貧困からの自由」=憲法25条で定められた「生存権」である。
いまひとつは言わずと知れた憲法9条、国家主権の行使の手段としての戦争の放棄だ。
…こう考えてみると、ぼくたちが常に立ち返るべき原点は日本国憲法が掲げた理想にある。
世界戦争という惨憺たる経験を経てたどり着いた人類の叡智がこの憲法には込められている。
「崇高」と表現したいほど立派な憲法ですよ。
多少我田引水になりますが、40年以上も昔の大学時代に学んだことが、いまぼくの思考の血となり肉となっているのですね。
ぼくは別に憲法を専攻したわけではないにも拘らず、です。
それは大学で学んだことが「決して無駄ではなかった」ということを意味しています。
そう考えてみると、昨今の大学を「実学の場」、ありていに言えば職業訓練校に改造しようという動きはトンデモナイですね。
日本人の知的退嬰を推し進めることにしかなりません。
大学とは、一見無駄に見える(すぐには役立たない)知識を幅広く身につけ、思考の基礎体力を獲得する場であるべきです。

29