● 「戦前と戦後の日本」
「民族派 Vs 進歩派」という色分けが対立軸を表すのに的を得ているかどうか疑問ですが、戦前の日本の対外活動の正当性を主張する人と戦前日本を批判的に捉え戦後日本を進歩した姿と見る人の代名詞としてわかりやすいので援用させてもらうことにします。
この両者の対立を建設的に解消するためにも、「敗戦責任論」が鍵になると考えています。
民族派は、戦前日本に対する進歩派の安易な批判に対して、民族及び国家の歴史的継承性や国際情勢の歴史規定性から再考を迫っていると受け止めています。
とりわけ、それを、戦前の日本よりも激越にかつ広範囲に行ってきた欧米の価値観や日本観に依拠したかたちで持ち込んでいることに危険性と論拠の脆弱さを感じているのかも知れません。
(日本が明治維新を経て戦前のような日本になった(ならざるをえなかった)条件として、欧米諸国の対日(アジア)活動を第一に上げざるを得ないからです)
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私と「近代知性」、「戦前の日本も象徴天皇制」、「イスラムや共産主義」 投稿者 あっしら 日時 2002 年 10 月 15 日 より抜粋
このような論点においては、私も民族派です。
進歩派が戦前の日本を批判するならば、“近代”そのものを批判しなければ正鵠を欠くと言わざるを得ません。
(日本も、あのような統治形態や対外活動ではなく植民地になったり半植民地的支配を受ける道を選択すべきだったというのも一つの論ですから、そのように主張される進歩派であれば理解できます)
戦前と戦後の日本の統治形態を比較したとき、それほどの質的な差があるとは見ていません。
もっとも大きな変化は、軍事力掌握を基礎とした薩長支配から地域性を払拭した“エリート支配”に移行したことです。
天皇制に関しては、戦前も「象徴天皇制」だと捉えています。
天皇が明治維新を領導したわけではなく、統治権力奪取の手法として担がれ、統治権力の権威付けや国民意識確立のために利用されたと考えるほうが素直です。
(欧州の絶対王制や中央集権国家の成立過程とは異質のものです。明治天皇は16歳で即位し、その親とされる孝明天皇は、公武合体論を唱えていたので薩摩の武士団によって毒殺されたと言われています)
実際の政策決定過程で果たした天皇の役割も、薩長が掌握していた軍部や官僚が決めた政策を最終的に承認するという形式的なものです。
これは、軍部や官僚が決定した国策を天皇が権威付けする構造ということができます。
天皇の名において重要な国策が示されたのですから、庶民が天皇を強く意識することになったのは当然です。
幕藩体制から近代国家への移行に際して採用された戦前の天皇制は、まさに「国民統合の象徴」だったのです。
軍部や官僚が責任を天皇に押し付けたとは思っていませんが、自分たちにはない権威を天皇から借りていたことは間違いないと考えています。
明治維新第一世代は天皇制の“手段性”をきちんと認識していたと思われますが、第2世代、第3世代となるに従い、天皇制が“手段性”から目的に転化していっと考えています。(2・26事件に連座した北一輝氏などは、天皇制の“手段性”をきちんと認識していた)
国家成員が民族や国家という意識を強く持つのは近代的特質だと考えています。
外部国家(共同体)を利害が対立する存在ないし異質のものとして強く意識するようになるのは、外部国家との関係が敵対的に濃密になったことの反映です。
地域及び血縁を基礎とする共同体が国家という上位概念に取り込まれることで、共同体性のリアルティが希薄になります。
現実とは異なる共同体性を引きずっていたり、個人に分割されていく意識を超克して国家的統一をはかるためには、生活感覚ではない抽象的な価値観を醸成するしかありません。
国家的統一を実現しなければ、資本の原始的蓄積を効率的に行うことも、市場や通貨の統一も、戦争を遂行することもできません。
国家統治者は、民族のアイデンティティを説明する体系をつくり、教育やメディアを通じて国民がこぞってそれを了解することで、「民族国家」を確立しようとします。
そのような歴史過程が、「私は日本人であると判断する」という民族意識を形成し、日本民族という認識を成立させていると考えています。
国民という概念は国家的識別によるですから、国家の統治システムに依存するもので本人の認識は無関係ですが、国民経済が生活の基礎になっている現実では、国家の利益が自分の利益に直結していると考えるのは自然な流れです。
「民族国家」は、自然発生的に存在するのではなく、意識的に形成されるものだと考えています。
今後の方向としては、民族国家という意識が薄れていくと見ています。
自由主義的個人が尊重される経済システムであれば、国家が持つ共同体性のリアルティは急速に薄れ、国民国家としての統一性は、抽象的な価値観や利害判断を基礎にするようになります。
経済活動の主要主体である優良大企業がグローバリズムを楯に国民経済の桎梏を取り払おうとしていますから、諸個人が持つ近代的共同体意識=国家帰属族意識や民族意識は薄まっていくはずです。
このような意識情況が、国家帰属意識を超える国際主義やグローバリズムを受け入れる基礎だとも思っています。
■ 近代知性
合理主義や啓蒙主義から生み出されている近代科学の言説は、自然科学・社会科学を問わず否定的なものとして見ています。
根源的生存価値観と切り離された論理(理論)は、危ういものであると同時に、論理的にも不正確なものです。
(一方で、論理に裏付けされていない価値観の主張は、近代的理論や価値観に対する対抗力になり得ないと思っています。人権派や反戦派にそのような危惧を感じています)
近代科学の細分化や認識の客体化という状況は、他者関係的な人々が目的(欲求)を実現するための手段である思考や理論を、自己目的的で抽象的な存在にしています。
論理(理論)が、好ましい好ましくないという価値観的主張を抑え込んでいる現状は倒錯した精神情況だと考えています。
(こうなったらもっと好ましい現実になるという判断がコンセンサスを得られることで、それを実現するための思考活動と実践活動が行われるべきだと考えています)
現実を動かす力は理論だとしても、そのような理論を過去のものとしてしまう現実を変える力は価値観です。
人々がどういうシステムを選び取るかは、誰を好きになるかと同じように価値観に支えられるものです。
しかし、生身の存在して生きている限り、別のシステムで有効となる価値観をただ唱えても、排撃されるか自滅することになります。
(「近代経済システム」のなかでよりよい生活条件を手に入れようとしたら、資本や国民経済を大きくして、そのおこぼれに預かることしか方法がありません。近代経済論理の論理に縛られている、別の言い方をすれば、近代経済論理の奴隷になって生存を続けているのが近代人です)
このようなことから、近代的価値観に疑義を呈し、そうでなくとも人々が生活レベルを落とすことなく経済的に安心して生存できるシステムを理論的に提示する活動を今後も続けたいと考えています。
(仏教的価値観に親近感を持っていますから、他者に幸福を与えられるとか、魂を救済できるとは考えていません。それらを望むのであれば、望む人が、自らの精神活動を通じてそこに至るしかありません)
7/3/16

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