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釧路で静養中。
連日よく晴れているが気分は晴れない。
ニュースは集団的自衛権、国立競技場、原発再稼働…理不尽なやり口、無理を通して道理を引っ込ませる話のオンパレード。
何か既視感があると思ったら、往年の任侠映画における悪玉新興やくざ(例えば安部徹さん)のやり口にそっくりなんだ。
残念ながら、現実社会では、堪忍袋の緒が切れた健さんが安部さん(「安倍さん」じゃないよw)を叩っ斬ってくれるというわけにはいかない。
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これは個別案件への対応じゃなくて、理不尽強権の安倍政権を倒すしかないと思う。
国論を大きく割っている以上、安保や原発を正面から争点に据えた解散が筋だ。
でも、その解散総選挙でまた自民党が勝利してしまうという"現実的な悪夢"が頭をよぎる。
…でも、そうなっちゃったらしょうがないね。
日本人の民度からいって「民主主義は荷が重すぎました」ということで。
実はもうひとつ引っかかっているのが福島の中間貯蔵施設の話。
これは誰がどう見ても破綻しているのだが、国は既定路線を改めようとしない。
根本に触らず、その場しのぎの弥縫策を連発するのみで、結局、矛盾が膨らみ、総費用も膨れ上がるばかり。
国立競技場と全く同じ構図なんですね。
つくづく「この国のありよう」が情けなくなってくる今日この頃です。
以前に安倍さんのことを「無敵の権力者」と書いたことがある。
「国民の支持とりつけに汲々としているのになぜ無敵といえるのか」と反論してきた人がいるが、そういう意味ではない。
論理が破綻していようと、発言の前後が矛盾していようと一向に気にかけない「言葉の軽視」は「倫理的に無敵」なのです。
要するに「自省の念を持ちあわせていない奴は強い」という話で。
「日本人の民度の問題」と書いたので、予想通り反発する向きもあるようだが、これは疑いなく「民度の問題」である。
別に「安倍政権を支持するから民度が低い」と言っているのではない。
個別政策についてはいずれも反対多数なのに選挙になると自民党が勝つ、という矛盾についての話である。
野党が不甲斐ないというのは理由にならない(確かに不甲斐ないが)。
政策に反対なら反対党に投票するのが議会制民主主義の基本。
そうした「投票による主権者の意思の表示」がきちんとなされなければ、そもそも民主主義は成立しない。
その基本があまりにも蔑ろにされているから「民度が低い」のである。
そういう多数の有権者がいるから、安倍政権は憲法学者の99%に違憲を指摘されても、論理が破綻し、説明にならない「説明」を繰り返し、答弁に矛盾が露呈しても地位を失うことはない(普通に言論の責任が問われる民主主義国なら即刻辞任となるはず)。
議席の絶対多数を背景に無理筋を切ってくる。
民主主義には「言葉の責任」が伴う。
例えそれが「民主主義を成立させるためのフィクション=約束事」だったとしても。
その前提がこうも蔑ろにされている現状を果たして「民主主義」と呼べるのか。
いま起きていることは「とても恥ずかしいこと」だという自覚を国民の一人一人が持たなければならない。
こういうことを書くとまた「上から目線だ」とか言う奴が出てきそうだな。
でもぼくは極めて常識的かつ基本的な認識(民主主義の原理原則)を述べているに過ぎません。
「民主主義とは単なる多数決のことではない」とみんな小学校で習ったはず。
もう一度、「当たり前の出発点」に立ち戻ろうという話です。
いまの安倍政権の最大の問題点は、何にせよ政治的争点についてきちんと議論して正面突破を図らないこと。
ウヤムヤのうちに数を頼んで既成事実を積み上げようというやり方。
集団的自衛権が典型的で、きちんと議論して憲法改定したうえでというなら話は解るが、それでは困難だというので解釈改憲に走る。
その解釈は無理だ、違憲だとどれほど多くの憲法学者や法曹関係者が指摘しても「最高権力者は私だ」と聞く耳を持たない。
ぼくが安倍さんが「無敵」だというのは、もともと論理がないから論破されようもないという意味。
「筋を通す」ことへの最低限の敬意を失えば人間は強い。
恥を知らない人間は強靭だ。
しかし、言うまでもなく首相は日本国憲法の下に位置づけられた存在であり、例え国民の多数の信任を得たところで憲法を恣意的に運用する権限はない。
その原点、言い換えれば法治主義、立憲主義の「キホンのキ」を弁えない権力者がいて国民がそれを許すなら、それはもはや民主主義ではない。
安倍さんのおじいさんは、’60年、安保反対を訴えるデモが高揚するなか、「声なき声は後楽園球場にいる」という意味のことを言った。
きょうは東京ドームで巨人が勝ったようだ。
…つまらん。
釧路で一人、「声なき声」がブツブツ云うておるぞ。
野球は好きだがアンチ巨人だ。
…いや、ま、それはいいけど。
扇橋さんが亡くなったな。
小三治さんがさぞ淋しがっていることだろう。
合掌。
釧路の我が家には落語のテープ、CD、DVDがたくさんある。
今回、手狭になった東京のマンションから大量に運びこんだので尚更だ。
でもなぜか入船亭扇橋師匠のものはない。
高座で何度か直に聴いていて、味のある噺家さんだと思ってきたが…。
今夜は扇橋さんと仲の良かった小三治師匠を聴いて偲ぼう。
ぼくはたぶん安倍さんの考え方、やろうとしていることに徹頭徹尾反対だけど、彼が改憲を正面に掲げて正面突破を図るなら、そしてそれが多数の有権者の賛同を得るなら、それはそれで諦めるしかないと考えている。
それが民主主義のルールだと思うから。
でもルール無視、議論黙殺のゴリ押しはゆるせない。
それって普通の考え方だろ?…きちんと話し合ったうえで最後は多数派の意見を尊重する。
改憲賛成派でもきちんと筋を通す人なら充分共闘できる括りだと思うのだけれど。
しつこいようだけれど繰り返す。
ぼくは結論の是非を言っているのではない。
「結論」に至るまでの過程の正統性を問うているのだ。
そこを混同してはいけない。
例え結論は真反対であっても、そこに至る議論のルールを共有できれば、それは現段階における「同志」だと考えている。
つまり、現時点の論点は、改憲の賛否や集団自衛権についての賛否、原発再稼働を認めるか認めないかの差異ではない。
結論に至るまでのルールをきちんと守ろうという話だ。
その「民主主義のイロハ」が権力によってあからさまに無視されている現状を容認するかどうかが最大の論点なのである。
ぼくは40年来の反原発派だが、国民の大多数が「経済発展のためには原発再稼働やむなし」というなら、それは受け容れるしかないと考えている(批判はするよ!)。
同じように「アメリカの戦争のために日本人が血を流すのも国際情勢のリアリズムからいって当然」というならそれもやむを得ないだろう。
でも、それはきちんと正面から議論を重ねたうえで「日本社会の当面のコンセンサス」として選択すべきこと。
節目には直接民意を問う「解散」や「住民投票」があって然るべきだろう。
そのうえで自分の意に反する選択を社会がするなら、それはやむを得ない。
でも、なし崩しに既成事実化されるのはダメ。
ともかく、ぼくとしては、ごく当たり前、民主主義の原理的なことを言っているに過ぎないと思っている。
そこまで立ち戻って、もう一度やり直そう。
左か右か、護憲か改憲、原発推進か反原発か、そういった「結論」以前の地点にいま一度きちんと戻って、議論のプロセスを大切にすることから始めよう。
民主主義は所詮虚妄かもしれない。
議会制民主主義なんて結局は不出来なフィクションに過ぎないのかもしれない。
実はぼく自身かなりの程度そう思っていることを否定しない。
しかし、それでも、そこに依拠して襤褸の旗を振り立てるしかない。
それ以上に信頼するに足る政治制度をぼくは知らないから。
正直言えば、ぼくはあまり天下国家を語りたくない。
いまは本業の主戦場である「福島」の問題で手一杯だから。
正直言えば、それすら一介のジャーナリストの手に負えない、ましてや定年までぼくに残された半年やそこらではカタがつかない問題だと判っているから。
でも、こうなったら黙ってはいられない。
ひとつのことさえ全うできないのに、多正面に敵を迎え撃つのは敗北の道だとは重々承知。
しかし、黙っているわけにもいかない危機的局面に日本社会は直面していると思う。
だから細々とでも声を上げ続ける。
所詮は蟷螂の斧だと自覚しているつもりだが、その斧さえ刃こぼれしかねない今日この頃…。

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