晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:北斗七星
日蓮が弟子等の謗法

生死一大事血脈抄
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思ひを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是れなり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。剰へ日蓮が弟子の中に異体異心の者之れ有れば、例せば城者として城を破るが如し」。

分裂に次ぐ分裂を繰り返す日蓮が逆縁の弟子達に付ける薬はもう無いに等しい。

経王御前御書
  
「・・・ 今の代は濁世と申して乱れて候世なり。其の上眼前に世の中乱れて見え候へば、皆人今生には弓箭の難に値ひて修羅道におち、後生には悪道疑ひなし。而るに法華経を信ずる人々こそ仏には成るべしと見え候へ。御覧ある様にかかる事出来すべしと見えて候。故に昼夜に人に申し聞かせ候ひしを、用ゐらるる事こそなくとも、科に行はるる事は謂れ無き事なれども、古へも今も人の損ぜんとては善言(よきこと)を用ゐぬ習ひなれば、終には用ゐられず世の中亡びんとするなり。是れ偏に法華経釈迦仏の御使ひを責むる故に、梵天・帝釈・日月・四天等の責めを蒙りて候なり。又世は亡び候とも、日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ。如何に申さじと思ふとも、毀らん人には弥(いよいよ)申し聞かすべし。命生きて御坐さば御覧有るべし。

又如何に唱ふとも、日蓮に怨をなせし人々は先づ必ず無間地獄に堕ちて、無量劫の後に日蓮の弟子と成りて成仏すべし。恐々謹言。
 日蓮花押

此れ如何せん。如何せん。
投稿者:北斗七星
日蓮が弟子等の謗法

生死一大事血脈抄
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思ひを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是れなり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。剰へ日蓮が弟子の中に異体異心の者之れ有れば、例せば城者として城を破るが如し」。

分裂に次ぐ分裂を繰り返す日蓮が逆縁の弟子達に付ける薬はもう無いに等しい。

経王御前御書
  
「・・・ 今の代は濁世と申して乱れて候世なり。其の上眼前に世の中乱れて見え候へば、皆人今生には弓箭の難に値ひて修羅道におち、後生には悪道疑ひなし。而るに法華経を信ずる人々こそ仏には成るべしと見え候へ。御覧ある様にかかる事出来すべしと見えて候。故に昼夜に人に申し聞かせ候ひしを、用ゐらるる事こそなくとも、科に行はるる事は謂れ無き事なれども、古へも今も人の損ぜんとては善言(よきこと)を用ゐぬ習ひなれば、終には用ゐられず世の中亡びんとするなり。是れ偏に法華経釈迦仏の御使ひを責むる故に、梵天・帝釈・日月・四天等の責めを蒙りて候なり。又世は亡び候とも、日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ。如何に申さじと思ふとも、毀らん人には弥(いよいよ)申し聞かすべし。命生きて御坐さば御覧有るべし。

又如何に唱ふとも、日蓮に怨をなせし人々は先づ必ず無間地獄に堕ちて、無量劫の後に日蓮の弟子と成りて成仏すべし。恐々謹言。
 日蓮花押
投稿者:北斗七星
三つの集団 訂正

誤:C「依了義経不依了義経」
正:C「依了義経不依不了義経」

以上のように二箇所訂正します。
投稿者:北斗七星
師弟の関係

師匠の命に従って経を読み、質問をせねばならなぬ。
師匠が悲しんでいるときには慰め、悔いておる時には励まし、
悪い見を抱いておるときには正しい見に帰らしめ、総て師匠のためを思わねばならぬ。
師匠の許可なくしては他行せず、師匠の病む時はその平癒を念じて看護せねばならぬ。

又師匠は弟子に対して、経を読ましめ、質問せしめ、教え愛し助けねばならぬ。
自分に不要な鉢や衣や、その他の器具があって、弟子が持っていない場合には与え、
弟子が病む時には親切に看護し、弟子が悲しむときは慰め、悔いている時は励まし、
悪い見を抱くときは正しい見に帰らしめ、総て弟子のためを思わねばならぬ。弟子らよ、
これが弟子が師匠に対し、師匠が弟子に対する勤めである。
(新訳仏教聖典 大法輪閣版p.103)

この教えも、釈尊滅後の師弟の関係において「法」の下での平等性を説いていることは明らかです。
それを無視して、人に過ぎない法王、法主、グル(導師)等を絶対者として崇めることがあるならば、それは「謗法」となると言うことです。

「謗法」のゆえに宗教界は分裂が絶えない。宗教界の分裂のゆえに世俗界も分裂が絶えない。
分裂があれば紛争も絶えない。



投稿者:北斗七星
三つの集団

弟子らよ、集団に三つある。「頭のある集団」と「離れ離れの集団」と「調和のある集団」である。

頭のある集団とは、その集団の上座が奢りを慎み、学問を怠らず、悟りを得るために勤め励む。
又この上座に従う者も、是に習って勤め励む。これが頭のある集団である。

次に離れ離れの集団とは、その集団に争いが出来、互いに舌の剣で傷付けあうことである。

第三の調和のある集団とは、互いに睦み合い乳と水のように溶け合っておる集団である。
この第三の集団にはいろいろの徳が生まれる。それは仏とおなじ生活である。
彼らは心に歓びを持ち、歓びによって福を得、福によって、体がのびやかになる。
たとえば山の上に大雨が降れば、それが流れて水溜りとなり、小川となり、大河となり、
遂には大海を満たすようなものである。互いに相和することから、
次第にこれらの徳を積んで、心に楽しみを覚え、精神を乱さないで専心になれるのである。
(新訳仏教聖典p.204〜205)

普通わたしたちは第一の集団を当たり前と思っていますが、仏教ではどうもそうではないようです。「法四依」という教えに@「依法不依人」、A「依義不依語」、B「依智不依識」、C「依了義経不依了義経」というのがあって、

「法」の下での平等を重要視している訳です。

C「依了義経不依了義経」とは
又依了義経・不依不了義経と説かれて候へば、愚痴の身にして一代聖教の前後浅深を弁へざらん程(内)は了義経に付かせ給ひ候へ。了義経・不了義経も多く候。阿含小乗経は不了義経、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経。又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経。涅槃経を法華経に対すれば、法華経は了義経、涅槃経は不了義経。大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり。故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑み候へ。(唱法華題目抄)

法華経は即ち釈迦牟尼仏なり、乃至、この経を信ずる者の前には滅後なりと雖も仏の在世なり。(守護国家論)

救世主メシヤは今も健在で常に衆生の中に在って「法」を説いているということであります。

以上。

注:「弁へざらん程(内)は」の(内)はわたしの挿入句です。このほうが意味がよくわかります。
尚、「三種の師」は新訳仏教聖典p.244からの引用です。
投稿者:北斗七星
三種の師

ローヒッチャよ、世にはまさしく詰(そし)らねばならぬ三種の師がある。

第一に出家しながらその目的を果たさないで居て、「これは汝等の為になるもの」と弟子らに教える。
弟子たちはその教えに耳を傾けず、師匠の教えから離れてゆく、この師匠は詰らなければならぬ。
「あなたは出家しながら、自らその目的に達していないで、弟子たちに教えを説くものであるから、弟子たちはあなたの教えに耳を傾けず、他の師匠に逃げようとする、あなたの教えは嫌がる女に、溺れて抱きつこうとするようなもので、それは一種の悪い貪りである。」と。

第二の師は、出家しながら自ら出家の目的を果たさないでいて「これは汝等のためになり、汝等の幸福になるもの」と弟子らに教える。弟子たちはよくその教えに耳を傾け熱心に行を修めようとする。
この師匠も誹られねばならない。「あなたは丁度自分の畑を忘れていて、他人の畑の草取りをしているようなもので、それは一つの悪い貪りである」と。この非難も当たっている。

第三の師は、自ら出家の目的を果たして、弟子たちに教えておるが、弟子たちはその教えに耳を傾けず、師の教えから離れてゆく(ことを嘆き悲しむ)。この師も、「あなたは丁度古い捕われを切りながら、わざわざ新しい捕われに付くようなもので、それは一種の悪い貪りである。他人が他人に何をなし得よう」と誹られねばならぬ。そうしてこの非難も当たっている。

注:(ことを嘆き悲しむ)は私の挿入句です。こうしないと意味が解らないので・・・。
これは「縁無き衆生は度(渡)し難し」につながる言葉だと思われますが、この時点で逆縁を結ぶことになりますから、深追いすることは不要だという意味と受け取ることが出来ます。

大体、今の大僧正、教皇、僧、牧師、神父サマ等は第一、二種に分類されてしまうとみています。いや、まともな教えすら説かない。
投稿者:北斗七星
国であれ、宗教教団であれ

守るべき「まつりごと」の道

サッチャカはおもむろに説くよう。
大王よ、王たるものの任は民を護るにある。その王と呼ばれるわけは、民の父母であるからである。法によって民を護り、安らかにならしめるから王と呼ばれるのである。
大王よ、王の民を養うことは、父母の赤子を養うようでなければならぬ。父母は、赤子の言葉を待たないで湿ったものを取り替えて新しい布をあてごう。このようにして、民に福を与え、悩みを去り、慈しみ養うのであるが、かくあることは、王は民を以って国の宝と成し、民が安らかでなければ、王道が立たないからである。

大王よ、それ故に王たるものは、民を思い暫くも心を離さぬ。民の苦楽を察(し)り、民の繁栄を計り、その為には、常に水を知り、旱(ひでり)を知り、風を知り、雨を知り、実りの良し悪しを知り、民の憂いを知り、喜びを知り、罪の有無と軽さ重さ、功(てがら)の有無などを知って、よく賞罰を明らかにする。このように民の情(こころ)を知って、王の威力を以ってこれを護り、与えるべきものは時を計って与え、取るべきものは良く量って取り、民の利を奪わないよう、酷い貢を去って民を安らかにする。この民に心を離さず、民を善く護るものが王と呼ばれるのである。・・以下略・・

(新訳仏教聖典p.255〜256  大薩遮尼乾子所説経)

以前にも何処かで書き込んだ言葉だとおもいますが、このような言葉を現代の僧や牧師から聞かせてもらったことが一度もない。

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