“君が代”は天皇家の歌ではない。他王朝の歌からの“転用”あるいは“盗用”である。
その経緯を略述しよう。
“君が代”に当る歌は、古今和歌集に出ている。賀歌の部である。
題しらず 読人しらず
わがきみは千代にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
(巻七、三四三)
当集中、“読人しらず”とされた歌は少なくない。
その内実は、一に実際に編者、紀貫之がその歌の作者名を知らなかった場合、二に“知っていた”が、これを記することを避けた場合、その二種類があるものと思われる。
有名な、平家物語(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように、“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(千載和歌集)に収録したという逸話が知られている。
古今集の場合も、この第二のケースが少なくないかと思われるけれど、右のような“伝承”が記録されていない限り、一般には判別しがたいのである。
けれども、今問題の“わがきみは”(三四三)の場合は、いささか状況がちがっている。
なぜなら“わがきみ”という以上、これは当然“特定の人物”を指す。歌の内容からすれば、“特定の君主”と見なすのが自然である。
( “自分の恋人“ を指す、とか “自分の御主人“ を指す、といった理解もあるけれど、いずれも実証なき、一種の “恣意的“ な解釈であろう。)
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これがもし、天皇家内の歌であったとすれば、当然“何々天皇のとき”とあるべきところだ。たとえば、
寛平御時きさいの宮の哥合のうた
よみ人しらず
むめがかを袖にうつしてとゞめてば春はすぐともかたみならまし
(巻一、四六)
のように、作者名については不明としながら、題の方には“寛平御時”(八八九〜八九八。宇多天皇)と明記されている。
このような風物歌(の態)のものでも、“題”がある。
まして「特定の天皇に対する、特定時点に作られた『賀歌』」であったとすれば、その特定の天皇の“表記”がないのは、不審だ。
簡単に「忘却された」とか「伝承し落した」などと言いうるものではない。
この謎を解く鍵は、意外なところから見出された。
それは九州の志賀海神社(福岡県)の祭儀の中に出現している。
後漢の光武帝から贈られた金印が出土したことで知られる、志賀島である。
“山ほめ祭り”と呼ばれる、一連の祭儀の最終場面、椅子に座る宮司の眼前で、村人たち(祢宜<ねぎ>等集団)が “ドラマ“ をくりひろげる。
各自の“せりふ”が定められてあり、その後半に至って
祢宜二良(弓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれいしの
いわおとなりてこけのむすまで
と、(歌ではなく)荘重な口調で告(の)べられる。そして
「あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや」
という“せりふ”へとつづく。
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上(あげ)の浜千代に八千代まで
とあり、
「あれはやあれこそは阿曇(あづみ)の君のめしたまう御船になりけるよ」
と告べる。
すなわち“七日七夜のおん祭り”に果してお出でなさるか、と心配していた“我君”が、こちらからお迎えに出した船にお乗り下さって、香椎路につづく対岸の“千代”(現在、福岡県庁所在地近辺の地名)からお出で下さっている、と喜んでいるのだ。
“筑紫の君”である。もちろん、後代の“近畿の天皇”ではない。
博多湾岸の歌だ。
その“筑紫の君”を、志賀島の漁民(海洋民)たちは、“阿曇の君”と呼んでいる。
彼等は「阿曇族」だ(現、宮司家も“阿曇”姓)。
だからこそ、“筑紫の君”なる“阿曇の君”を“我君”と呼ぶのである。
これが、古今集巻七の「三四三」冒頭に現れた
「わがきみは」
という第一句の意義なのである。
その「わがきみの統治したまう世」を呼ぶ言葉が「君が代」だ。
その本来の“正しい意味”なのである。
(従って“君が世”という表記の方が、より原義をしめす。当然ながら“発音”の方が本来の伝承であること、日本語表記の常である。)
右の理解を裏づけるもの、それは現地(糸島・博多湾岸)における、一連の地名・神名群の存在である。
先ず、“千代”。先にのべた通り、現在の福岡県庁の所在地は、千代である。地下鉄「千代県庁口」は駅名だ。その博多湾岸は、千代の松原と呼ばれている。
「八千代」は、その増幅形。おそらく、博多湾岸一帯を指したものであろう。
(筑紫は、現地では“ちくし”と発音される。“ちよ”と同類地名である。)
次は“細(さざれ)石”。
博多の西、糸島郡(現、前原市)に細石神社がある。
有名な、弥生の王墓、三雲遺跡に隣する。吉武高木遺跡(福岡市)につづき、漢式鏡(前漢式鏡)をもつ、最古の“三種の神器”の王墓だ。
“さざれ石”は “年月を歴(へ)た神聖な石“ の意。
当神社の御神体を指すものであろう。
“細”は “かすか“ “すくない、まれ“ の意をもつ(もちろん“ちいさい”の意もある)。
なお、同神社の境内には、各種の石(神石)が小祠内に蔵されている。
第三に、“いはほ”。右の三雲遺跡の南隣に、井原遺跡がある。
“いはら”ではなく、「いわら」と発音する。
“岩羅”であろう。
「そら」“うら”“むら”等と同じく、古代日本語にもっとも多い接尾語の一つだ。
(吉武高木遺跡のある“早良(さわら)郡”は、“沢羅”の意。沼沢の地である。)
この井原遺跡も、先の三雲につづく、漢式鏡(後漢式鏡)をふくむ“三種の神器”をもつ古王墓であるが、“井原”の地名は、背振山脈の最高峰“井原山”に基づく。
(井原の地の南方に当る。)
井原山は、鍾乳洞の名山である。
水無(みずなし)にある、その入口は狭いけれど、内部には、あの“鍾乳石”のつらなりをもつ、という(現地で永年、巡査の任にあった、故鬼塚敬二郎氏による)。
“岩羅”の名は、この「鍾乳石群の連なり」を指すものであろう。
そしてこのような“鍾乳石の連なり”の姿を「いはほ(岩穂〈秀〉)」(古今集)と呼んだ。
このような“岩穂”が、何千万年以上の、気の遠くなるような歳月の中で、ようやく“かすかな石(細石)”から成長しつづけて、この見事な輝きの長列に至ること、それを古代の人々は(或はわれわれ現代人以上に)よく知っていた。
そしてそれを“神のなせる仕業”と見なし、これを崇敬しつづけていたのではあるまいか。
「鍾乳洞信仰」と呼んでも、不可はない。
実は「鍾乳石」にシンボライズされた、大自然そのものへの讃嘆なのである。
第四に、“こけのむすまで”。
糸島郡の西北部、唐津湾に臨むところ、そこに桜谷神社がある。
漁師達の奉ずる、ささやかな神祠だが、その祭神は“こけむすめのみこと”である。
この地の北、玄海灘に面するところ、そこには有名な“芥屋(けや)の大門(おおと)”がある。
“け”は “物の気(け)“ “おばけ“ などの“け”。
“精霊のあるところ“ を意味する。
「や」は“やしろ”“やど”などの“や”である。
ここを“表”とし、その南方の“裏”に当たるところ、それが“こけ”だ。
“し”(“ちくし”等)に対する“こし”(越)、“ゆ”(湯)に対する「こゆ(児湯)」などと同類である。
“むす”の“む”は“宗(むね)”の意。
“主“ をしめす。“す”は“すむ・すまひ”の“す”。
住地を意味する。“むす”は “主たる住地“ の意である。(“鳥栖(とす)”〈佐賀県〉も、同類語)
“め”はもとより、女神。
縄文以来の、海洋民にとって “御利益“ 深き女神であろうと思われる。
(弥生時代を“中心時期”とする、記・紀神話以前の、縄文の女神か。)
芥屋の大門は、海中に突出・屹立した奇巌をなす巨大岩盤であるから、先の井原山の“鍾乳石群”とも相つらなり、一連の巨石信仰時代の神名の一つであろう。
以上の地名・神名群との対応を、すべて「偶然の一致」視することは、平常なる理性をもつ人々にとって、なしうるところではない。
先の、志賀海神社の祭儀と相対応させるとき、
「『君が代』の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家に非ず、先進の筑紫の君(九州王朝の君主)である。」
以上の事実を“知っていた”からこそ、紀貫之は敢えてこれを “隠し“ 、“題知らず”「読人知らず」の形での掲載を “企図“ したのである。
けれども、以上の事実が明らかになってきた現在、これを以て、あたかも「天皇家内の歌」であるかのように扱うのは、「換骨奪胎」、率直に言えば、“盗用”の疑いを、限りなくまぬがれえないのではあるまいか。
たとえば“読人知らず”とされた、落人たる平家の公達の歌を以て、それと知りつつ、あえて“源氏の将軍の、時を得た歌”として喧伝するごときに、あたかも似ているのである。無礼だ。
さらに一歩を進めよう。
古今集巻七の“わがきみは”(三四三)の四首あとに、次の歌がある。
仁和の御時僧正遍昭に七十の賀
たまひける御歌
かくしつゝとにもかくにもながらへて君がやちよにあふよしも哉(がな)
〈三四七〉
仁和は光孝天皇の年号(八八五〜八八九)。
その天皇の御歌である(仁和元年、十二月十八日、仁和殿)。
ときに僧正遍昭は(旧暦)七十才。当時では“古稀”として、類少ない長命だった。その僧正に対して
「このようにして、とにもかくにも、永く生きながらえてほしい。」
の意をのべた歌である。
僧正はすでにかなり “弱って“ いたようだ。
だが、「それでもいいから、ともかく長生きを。」と、厚く情を寄せられた形である。
今、問題の“わがきみは”(三四三)の歌も、同じだ。
元気一杯の、青春や壮年のさかりの“わがきみ”に対して、“千代に八千代に”と、その長寿を祈っても、何も悪くはないけれど、やはり“病状とみに悪化”“命、旦夕”といった、厳しい状況の中に“わがきみ”があったとき、はじめて“千代に八千代に”の祈願を、古くからの(縄文の)女神にささげる、という、その行為はきわめて自然、歌の流れとしても、まことに理にかなって(リーズナブルとなって)いるのではあるまいか。
先の志賀海神社の祭儀の歌でも、「千代にいます、わが君」が、来られないか、と思っていたら、“七日七夜”の最後の日に、お出で下さった、という、深い歓喜の情が自然にこめられていた。
やはり“わがきみ”はすでに老齢、国民がその先行きを心配していたとき、そのさ中の歌なのではあるまいか。
「命、旦夕の老人君主の病状回復を祈る歌」
これが、この歌の本来の姿だった、という可能性が限りなく高い。
胸の打たれる歌だ。
だが、冷静に考えてみれば、そういう歌が一国の“国歌”としてふさわしいか否か。
常識ある人々には、おそらく判断が可能なのではあるまいか。
古田史学会報
1999年 8月 8日 No.33
「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について
−−−現代の政治家に寄す−−−
古田武彦
より抜粋
7/2/10

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