「開かれた地域共同体」は、それほど特殊なものであったり夢のような理想社会ではありません。
ご提示いただいた疑念は、実のところ、若いときからそのようなネックをどう解決すればいいのかと思い悩んだものです。
左翼的な立場であれば、労働者の高い思想性や道徳論でなんとかなると言うのでしょうが、それは人の感性の根源でもある欲望を理性で抑えつけるようなものなので様々な歪みが出てくると思っています。
「開かれた地域共同体」は、稼ぐ手段や富の蓄蔵手段としての貨幣を放逐する、自分(家族)が消費したり使うものはできるだけ目が届く範囲で生産する、そして、そのような条件により無用な対立や国家の支配という構造をなくし直接話し合える者同士で利害対立などを解決していく社会です。
逆に言えば、稼ぎのばらつきや恋愛に象徴されるような不充足はあい変わらず残る社会です。
(貨幣的富の蓄蔵手段がなくなれば、稼ぎの増加への執着は大きく減少するはずですから、稼ぎのばらつき(不平等)は縮小すると思っています)
歴史の流れを大まかに考えれば、短い期間を食いつなぐための狩猟・漁労から食の不安をできるだけ解消するための農耕・牧畜を経て、より快適で便利な生活を追求する段階に達したことがわかります。
日本など先進諸国で平均以上の所得がある人は、さらに“進んで”より楽しい生活を希求する段階にあるとも言えます。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。ご協力お願いします。
「開かれた地域共同体」における欲望の社会的コントロール方法最大多数の最大幸福氏とあっしら氏のやりとりから
人が求めるものは、必需財・利便財・快楽財に区分できると思っています。
生存を維持するために必須のものが必需財で、あれば生きることが楽になるものが利便財で、あれば楽しめるものが快楽財です。
外食は利便財であるものもあれば快楽財というものもあり、必需財と言える衣服も、ブランド品に見られるように快楽財として購入されることがあります。(必需財の筆頭である食品でも快楽財に相当するものがあります)
一人一人にとってのものに対する優先度は様々ですが、ざっぱくには、必需財→利便財→快楽財という優先順位になると思っています。
日本の平均所得以上の家族は、どれだけすばらしい快楽財を手に入れるかということが大きな関心になっているように見えます。
「開かれた地域共同体」の初期段階は、現在のコントロール方法とそれほど変わらないものだろうと想像しています。
ある仕事(共同体的活動)を行えば、ある量の稼ぎを得て、それで欲しいものを購入するというかたちです。
何が欲しいものになるかは実際の購買行動までわかりませんが、過去の動きでそれなりの推測はつきますが、人の気持ちは定まらないものですから、足りないものは買えないことになり生産量が増やされるはずですし、余ったものは、保存が利かないものであれば安く売られるとともに生産量が減らされ、保存が利くものだったら生産量を減らすかたちで調整されるはずです。
この変動が繰り返されるわけですが、このような動きは現在でも行われていることです。
食糧など日々消費してしまうものは過去の傾向を基礎にそのときの気分で変動するものだと思っていますが、耐久消費財は計画的に生産できます。
>協働の設計の大きなポイントとして、人々の欲望のコントロールがある。
>人々の欲望とは、「便利な土地に住みたい」「広い家が欲しい」「石油資源を使いたい」などなど・・・
>例を上げればキリがないぐらいだ。
「便利な土地」や「いい環境の土地」はその他の土地より利用料が高くなるはずです。
「広い家」や「豪華な家」は高い建設費を負担しなければなりません。
稼ぎを、いい家に注ぎ込むのか、うまい食いものに注ぎ込むのかは各人(家族)の価値観で選択されることです。
土地や家屋は、親子間などで利用の引継ぎも認められると思っていますが、土地の利用料や家屋の維持費などの要因で別のものを選択することも認められるはずです。(今とそれほど変わらないということです)
石油など量が限定されているものは、共同体の優先枠を控除したあと、価格で需給を調整することになると思っています。
多くの量が求められるものが少ない量しか供給できないときは、価格が高くなるという仕組みです。
食糧生産のための土地は、実際に現物として配分されるかたちではなく、論理的な配分になる可能性もあると思っています。そうであれば、土地条件による収穫の多寡を調整し、収穫物の配分(購入)で済みます。
土地を小刻みにするのではなく、農業生産に都合がいいかたちで利用するほうが合理的ですが、自分が占有できる土地で自由に農作業をしたいという人(家族)の意向も尊重されるべきだと思っています。
問題なのは、売春に代表されるような風俗などの“供給”と需要をどうするかということかもしれません。
これも性的快楽と購買力増大という欲望の軋轢になりますが、そのような活動を共同体的なものとして認めるかどうかはその時点で決めればいいことだと思っています。
(食うために売春ということは不要になりますが、購買力が物や譲渡性があるかたちである限り、性的快楽と購買力増大の交換はなくならないだろうと予測しています)
>やはり、そこでは、欲望と欲望がぶつかり合い軋轢が生じる。
>どうしても「より少ない活動量」で「多くのモノ」を手に入れる人が出たり
>「多大な活動量」を共同体で提供しているにも関わらず、「少しのモノ」しか得られ
>ない人が出る。
>まさに近代(今、現在)が抱える問題と同じである。
これは、今ほどではありませんが、「開かれた地域共同体」の初期段階では避けられないことかなと思っています。
例えば、みんながより楽になるものを開発した人だとか、みんなが欲しがるものをデザインした人が、「より少ない活動量」で「多くのモノ」を手に入れることは、みんなとは言いませんが多くの人が認めるのではないかと推測しています。
これは、いいものを生み出した人への多くの人からの贈与(お礼)と言えるものです。
「開かれた地域共同体」は、平均レベルが上がった上にさらに豊かな生活をおくる人もいるというイメージです。
いいものを生み出した人がその成果を人々に贈与するということも十分に考えれることです。人々はそういう人に敬意の念をいだき名誉を称えることでしょう。
(見ごたえのあるスポーツパフォーマンスや芸能活動をする人をどうするかはそのときどきの人たちが決めればいいことだと思っています)
>現在の人々の欲望の根源が、”「より少ない活動量」で「多くのモノ」を手に入れ
>る”ことなのであれば
>まずは、その価値観の意識改革がなされなければ、「開かれた地域共同体」もうまく
>いかないのではないか?
>そのような意識改革は可能なのだろうか?わたしは残念ながら難しいと思う。
>だとすれば、余程、優れた「協働の設計」を、我々は編み出さなければならない。
現在の価値観にどっぷり浸ったままでは、「開かれた地域共同体」に移行することは難しいと考えています。
そのためには、欲しいものが手に入るということはどういうことに支えられているのか、自分(家族)がより快適に生活していくためには他の人たちも快適になることが早道で合理的で自分も落伍することがないという実感を持つ過程が必要だと思っています。
(欲しいものが手に入るのは、人々が自然に働きかける活動があるからです。そのような活動にできるだけ多くの人が従事したり効率的な生産手段を使うことで楽に豊かになれます)
実感を持つ過程が、グローバリズムや新自由主義に対抗する考え方である「国民経済主義」に基づく国家社会だと考えています。
「国民経済主義」は、制度や仕組みを変える必要はなく、政策(国策)のみで実現できるものです。
>ただ、それには、やはり価値観の変革と精緻な「システム設計」が必要でしょうね。
価値観の変革というより、かつての日本の農村共同体の価値観のように、思わず知らずのうちに価値観が変化することが重要だと考えています。
もちろん、意識的な働きかけが不可欠ですが、それを理念や理論というかたちで受け入れるのではなく、日々の生活をちょっと違うように解釈することで納得できる現実条件が必要だと思っています。
その第一歩が国民経済主義に基づく国家社会での生活だと思っています。
そうであれば、「システム設計」もうまくいきます。
また、「開かれた地域共同体」は、効率性第一を宗とするわけではないので、今風の合理的「システム設計」は不要だと考えています。
>本来は生きていくために最低限必要と思われる知識なのに、貨幣経済にどっぷりつかってしまっている現在ではそんなことを考えたこともないという人が、ほとんどなのではないでしょうか?
そう思っています。
しかし、“超”自由主義者であるハイエクがいみじくも語っているように、人々は自然と社会主義(相互扶助的共同体主義)に向かうと思っています。
(それが根源的に合理的な社会(人々の関係的活動性)だからです)
変わるときにはびっくりするほど早く動くと思っています。
>(わたしも阿修羅で、あっしらさんの投稿を読むまでは、そうでした)
そういう方が一人でも増えることが無上の喜びです。
なぜなら、それが自分の快楽につながると思っているからです。
>あと、比較的人の嫌がる仕事をする人には、多くの稼ぎを与えるか少ない労働時間を認めることです。
>活動質×活動量=実現できる欲望量 というイメージが、ストレートに反映することが重要だと思います。
同意です。
遺体焼却など忌避されがちでありながら必要不可欠な活動がけっこうあります。
人の嫌がる仕事はひと任せではなく自分や家族でやる方向が望ましいとは思っていますが、活動質×活動量=実現できる欲望量というご提示の考え方で調整する必要もあると思います。
また、一人一人の共同体的活動は、固定化されたものではなく、できるだけバラエティに富んでいるほうがいいと考えています。
(自分自身がいろんなことをやりたいからです)
比較的人の嫌がる仕事は、輪番的に分かち合ってこなすということになるかもしれません。
>全員が土地使用料を払う側に回ることによって、その土地使用料も、現在とは比べものにならないほど低廉なものになると考えています。
>あっしらさんは、そのあたりに関しては、どのようにお考えでしょうか?
土地は、住居用及び“均田制”用のものと共同体的活動用に区分されると考えています。
住居用は、基礎(最悪)の土地は無償で利用でき、引きが強いいい条件の土地は引きの度合いにより付加利用料が課せられるというかたちが望ましいと考えています。
自分及び家族の食糧を生産するための“均田制”用土地も、基礎(最悪)は無償で利用(義務的利用)でき、いい条件の土地は付加利用料が課せられるかたちだと思っていますが、実体としての“均田制”(土地のリアルな配分と占有)になるのか、論理的な“均田制”(土地の持分保証)になるのかは、その時点での判断だと思っています。
論理的な“均田制”であれば、実際の運用は共同体的活動用の土地と同じになります。
(どうしても実体としての“均田制”を望む人や家族にはそれを実現すべきだと思っています。それこそが奴隷からの離脱だと考えているからです)
共同体的活動用の土地は当然すべて無償です。
※ 現在の住居用私有地は、それなりの年月と代替わりを通じて「開かれた地域共同体」にふさわしいかたちに変えていけばいいと思っています。
2006/11/12

143