リベラリズムでもファシズムでも共産主義でも、それが現実の国家社会で血肉化されていく過程は同じです。
そして、押し付けられた思想は弱く、諸個人が自ら選び取った思想は強いということです。
(リベラリズムは、国家社会の思想として本源的に弱い性格を内包していますが..)
ナチズムや戦前日本的価値観が人々の口を無理やり開いて呑ませたようなものであれば、歴史は変わっていたかもしれませんね。
思想内容とその普及過程(方法)は別問題です。
「ファシズムはリベラリズム的に選び取られたときに生命が吹き込まれ、ファシズム国家は民主主義的制度を通じて確立したときに強固なものになる。」という見方をしています。
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押し付けたファシズムはクソの役に立たない。投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 08 日
私は、どんな思想体系も抽象的なイズムであれば否定します。(思想として選び取らないという意味で、そのなかで提示されている具体的なものに対する理非判断は別です)
>ここでいう、リベラリズムとは、イズムではありません。人々の、本質的な生きる欲望のことを指しています。
>個を圧殺しなくて、なおかつ、円滑に社会が運営されれば、悪くはないですねと言うことです。
ファシズムも「人々の、本質的な生きる欲望」の現出形態とも言えます。投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 08 日
もう少し考えてください。
ファシズムも「人々の、本質的な生きる欲望」の現出形態とも言えます。
ファシズムも、「個を圧殺しなくて、なおかつ、円滑に社会が運営されれば、悪くはない」と言うことで選ばれたのかもしれませんよ。
ロシア革命や中国共産革命はナチス・ドイツと同列に置けません。投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 08 日
まず、ボルシェヴィキの軍事クーデタであったロシアボルシェヴィキ革命と日中戦争と内戦を通じて達成された中国共産革命を、ナチス・ドイツと同列に置いて、「人々に期待され選ばれた」と見るのは誤りだと思います。
>現実的に、そういう形式のファシズムの発露がありましたか。
ナチス政権確立後から1945年の崩壊までは、「人々の、本質的な生きる欲望」の現出だったと言えるのではないですか?
第一次世界大戦後のドイツが置かれていた歴史的現実も考えてみてください。
>結果としては、「個を圧殺しなくて、なおかつ、円滑に社会が運営されれば、悪くはない」というような、社会を招かなかったわけです。
歴史的事実としてはそうですが、それがファシズムという思想の故とは言えないでしょう。
戦争をしないファシズムもあるという想像をすれば、少しは見えてくるかもしれませんよ。
(念のため、ファシズムを良いものだと言っているわけではなく、もう少し考えましょう、もう少し想像力を使いましょうとことでのレスです。そうしないと、名前が違っていたり戦争をしない“とんでもない思想”に吸い寄せられる危険性があります)
>ファシズムの限界、それは、人間の器の限界です。
>ひとり、あるいは、限定された人間の思考力には、限界があります。
>それよりは、概念を共有し合い、様々な人たちで、協議を重ねた方がよい。
戦後米英的ファシズム観に囚われているように思えます。
ナチス・ドイツでも、ファシズム的「概念を共有し合い、様々な人たちで、協議を重ねた」ものをある事柄についてはヒトラーが最終決定していたのですよ。
戦争という営みであれば、米英でも同じように独裁的決定が通例です。(戦争を民主主義的に遂行すれば敗北は必至です)
ヒトラーであれ、スターリンであれ、毛沢東であれ、金正日であれ、自己の生命的有限性と能力的限界性を熟知していたはずです。
“独裁者”であればあるほど、個人が抱えている生命的有限性や能力的限界性をいやと言うほど自覚させられる状況に身を置くことになりますし、それを自覚しない独裁者は短命に終わります。
(コンクリートの箱に入っていてできることではないので、独裁支配を維持するのはたいへんなことです)
いわゆる民主主義国家でも、「人間の器の限界」はそのまま通用する論理です。
個々の人間に器の限界があるのなら、それをいくら足しても限界を突破できないからです。
個に限らず、類として「人間の器の限界」を自覚することは重要だと思っています。
カリスマがいない「ファシズム」もありなのです。投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 08 日
ナチスドイツが短命で終わったからなんとも言えませんが、ソ連や中国の歴史を顧みれば、創成期はカリスマが出てくるとしても、カリスマがいない「ファシズム」もありだとは思いませんか?
(ソ連はスターリン、中国は毛沢東をもって、カリスマは消えています)
「大統領とか、首相とかは、名誉職で、お飾りであればいいような。」ファシズムを基礎とした国家社会も成り立つということです。
ある人の個性を基礎としたものではなく、あくまでも思想なのですから....
だからこそ、「本質的な生きる欲望」という言葉も吟味しなければなりません。
>ロシア革命・ヒトラー・毛沢東は、すべからく、金融家による、社会工学であった。
>という資料が、怪しげな本にではありますが、はっきりとかかれているんです。
>人々の野望は、利用されただけだと。
私もそのような「陰謀論」が通用すると思っています。
ひとに唆された欲望なのか、内からほとばしり出る欲望なのかという区別は、“社会工学”と呼べるような組織的機構的国家社会に生きる人々についてはなおのこと困難です。
なぜ人々の欲望を利用することができるのか、なぜ人々の欲望を利用しようと考えるのか、人の欲望とは“自然”なものとして発現するものなのか、などなどを考える必要があると思っています。
「思想」を不要にする現実を!投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 08 日
>思想的にもまた、すげ替え合う。
>カリスマ的思想というものも、なくなってしまって。
>異なる思想同士は、その価値(実効性)によって競い合うというのはどうでしょうか。
「思想のすげ替え合い」は、カリスマや押し付けを誘発するものです。
呼吸と同じように、あるときは「思想」であったものが「思想」としては意識されないようになるのがいいのでしょうね。
「思想」は支配の道具です。
「思想」が不要になったとき、ひとに価値観を押しつける必要性も微弱になり、政治も後ろに引っ込むことになります。
「支配―被支配の関係構造」が続く限り、「思想」は生き延びます。
「支配―被支配の関係構造」をなくし「思想」を消滅させるためには、せめて過半数の人々が想像力に富んだ思考と真摯なやり取りに意味を見出し、新しい世界を提示し実現する必要があります。
現在の支配層以上の思考営為と他者関係性が求められているということです。
そのような世界を実現した後は、そのようなくだらない思考努力は不要になります(笑)

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