晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:北斗七星
老子の説く虚無と仏教の空

空の論理 (中村元 p.632〜633)より

「道は常に何事もしない。だが、それによってなされないことは無い」(『老子』第三七章)

仏教がシナに移入された頃の指導者は「空」と「虚無」とを同一視して考えていた。

空・仮・中 p296より
天台宗の教学では、以上の三観のうち、いずれの観にも他の二つの観を備えていると言うことを強調する。そうして天台宗の観法では、一心三観を説く。すべての事象・存在がそのまま相対的思惟を超えた真実の理法にかなうことを体得する実践をいう。ひとおもいの心のうちに、空観・仮観・中観の三観を同時に観ずることをいう。
しかし、この天台の解釈がはたしてナーガールジュナの原意を得ているであろうか。すでにわが国においてもこの疑問を懐いた学者もあったが、やはり結局は天台の解釈に従うべきであるとされている。
以上。

人によっては、で、それが何なの?という世界かも知れませんが。無、虚無という言葉の意味が、決して現代で使われる死ねば無に帰るということではないことを強く主張したかっただけです。あと、この世を捨ててしまう南無阿弥陀仏極楽浄土往生思想もおおいに問題があるのですが後の機会にとします。
投稿者:北斗七星
「無」とは

その前に、
>だが、思い通りに動かないからと言って、自分の手足を罵倒したり、斬り落とす人がいるだろうか。国も同じだ。司馬遼太郎はそのように考えていたと思う。

これは分業社会を巨人に譬えた仏教思想と同じもの、仏教的コーポラティズムでしょう。

さて、「無」とは

「空の論理」中村元 p.294より
ナーガールジュナおよび中観派にとっては中および中道という観念がきわめて重要なものであることが解る。・・略・・・ところが、このように重要な中道という語が『中論』においてはただ一回出てくるのみである。すなわち「四つの真理の考察」(解四諦品)という第二四章の第一八詩に言及されているのみであるから、われわれはこれを手がかりにして考察を進めなければならない。
『縁起なるものを、われわれは空と説く。それは、仮に設けられたもの(仮名)であって、それはすなわち中道である』(中論 二四・一八)
とあり、これをクマーラジーヴァは、
『衆因縁生の法を、我は即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり』
と訳しているが、シナでは後にこれが多少変更されて、
『因縁所生の法を、我は即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり』
という文句にして一般に伝えられている。天台宗も三論宗も後者を採用しているし、また後者のほうが原文に違うことなく、よくその意味を伝えている。

無=中道=因縁所生の法=縁起。

諦=真理。

諦める=真理を明らかにする。

仏教用語の意味が少し解ってきます。



ほとんどここの記事とは関係ないような「無」の思想ですが、
投稿者:北斗七星
司馬遼太郎氏の生死観

http://uminekodo.sblo.jp/article/57785574.html
からお借りします。

司馬遼太郎は次のように書いている。

お釈迦さんが亡くなって、火葬に付して、その骨は舎利として、お釈迦さんの遺体の一部としてみんな大事にするということはありましたが、しかしお釈迦さんのお墓がどこにあるということはない。つまり、仏教とお墓は関係ないということです。またお釈迦さんの高名な弟子たちの遺骨もなければ、お墓もない。全部空に帰したわけです。本来生身の間は解脱を目指し、死ねば空に帰すというのが仏教のものです。ですから霊魂というものも仏教にはないのです。

司馬氏が「空」の意味をどのように理解していたかが問題になります。

空の論理 (中村元 p.89)より
『中論の偈にいわく、空なりといえども断ならず、有なりといえどもしかも常ならず、業の果報の失せざる、これを仏の所説と名づく、と。』
これはナーガールジュナ(竜樹)の中論第一七章第二〇詩である。それを原文から邦訳すると、
『仏によって説かれた〈業が消失しないという原理〉は、空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住ではない』となっている。

私注:「業が消失しないという原理」は在るが
これは「空」であってしかも断絶(無になるの)ではなく、輪廻するが常住(定まったもの)なのではない。

ですから、「霊魂に準じて似たもの」はある。
投稿者:シンクレア
下記↓本当にそうなのかも知れませんね。

>「少し前にもっとひどい時代もあったじゃないか。あれに比べたら今の方がまだずっとましだよ」と言ってくれる人は周りにもう見当たらない。

少し前迄は、国家の最小単位縮図とも言うべき家族親族間の心の支えがしっかり在りました。

親達は無償の大きな愛で子供達の傘になり情で結ばれた親類縁者の道徳も在ったと思います。

その延長線上に国家や社会の規範が在ると信じて疑わない所がバックボーンだったのではと?

家族の崩壊。。?

都会と田舎、世代間の断絶、家族関係の崩壊?
その日本社会に増殖する無数の宗教ビジネス?

何故あんなに無数認可されているのでしょう?

指令の命令一下と云う意味では、全く軍隊と同じではないか?と思えるのですが。。

温かい家族の繋がりを大切にしたくても、出来なくしてしまってる何か【目に見えない壁】が社会に出来てしまっているような気がします。

一夫一婦制を捨てたハレム的集団が良いなどと考えた事は一度も無いです。

机上の空論、理想と現実の【乖離】が破壊する多々かと想ったりします。

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