「「停止状態」を悲観せず「始まり」として待望した“平等私有財産制共産主義者”J・S・ミル 下」
産業主義近代の終焉
「停止状態」を悲観せず「始まり」として待望した“平等私有財産制共産主義者”J・S・ミル -1 よりの続きです。
【ミル『経済学原理』】
「そもそも富の「生産」に関する法則や条件は、物理的真理の性格をもち、そこには人間の意のままに動かしうるものは何もないのである。およそ人間が生産するところの物は、いずれも外物の構成と人間自身の肉体的精神的な構造の内在的諸性質とによって定められた方法により、またそのような条件のもとに生産されなければならない。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.223)
(近代経済システムの特性と労働の自然規定性を述べたものと理解する)
【ミル『経済学原理』】
「私有財産制は、旧い諸社会においてこの原理の有益な作用を妨げているところの、あの出発点における不平等と不公正とを伴っていないと見なければならない。またこの場合には、成人した男女は誰でもその身心の能力を妨げられることなく使用しうるし、また生産要具―土地および道具―は彼らの間に公平に分配され、外部的手段からいえばすべての人が均等の条件でスタートすることができるようにされるであろう、と仮定しなければならない。また、最初このように分配するに当たっては、自然が与えた損害に対しては補償を行ったであろう。身体の弱い成員には他の人々とつり合うように分配上の優先権を与えることによって均衡を図ったであろう、と想像することもできる。
がしかし、この分配がひとたび実施されると、それはもはやふたたび干渉を受けることはない。各個人はそれぞれ自由に努力をなし、また通常の運命のもとにおかれて、各自配当を受けたものの利用をはかるわけである。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.227)
(当時の近代的私有財産制ではなく、平等主義私有財産制への共感を示したものである。これに続いて共産主義を語る)
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● J・S・ミルの共産主義論
【ミル『経済学原理』】
「しかし、これと反対に私有財産制が排除された場合、このときにとるべき制度は、土地とすべての生産要具とを社会の共有の財産とし、各種の産業的作業を共同の計算で営むということであろう。社会の労働の指揮は、一名ないし数名の長官にゆだねられるであろう。そしてこの長官は社会の選挙によって任命されると想像することができ、また社会はこの長官に自発的に服従すると考えなければならない。生産物の分配も、やはり同じように公共的な行為である。分配の原則は、完全な平等という原則か、そうでなければその社会で支配的に行われている正義の観念または政策の観念に合致する何らかの方法により、人々の必要または功績に応じて配分するという原則か、そのいずれかとなるだろう。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.228)
(平等主義私有財産制と共産主義の違いを概略的に述べたものである)
【ミル『経済学原理』】
「共産主義の検討
これらの種々さまざまな企画はそれぞれ長所もあれば短所もあるのであるが、しかしその長所や短所がどういうものであるかはともかくとして、それが実行不可能なことであることは、誤りである。ここに一つの村落共同体があって、数千の住民から成り、今日これだけの数の人々を養うのに必要とされる土地と同じ広さの土地を共有の土地として耕作し、必要な工業製品を協業ともっとも進歩した工程とをもって生産しているとすれば、この村落共同体は、村民に余裕のある生活を楽しませるに足りるだけの生産物の量をつくることができ、またこの目的のために必要な労働量は、これをその集団の成員にして労働能力をもっているすべての者から獲得しうる(必要があれば強要しうる)手段をもつであろう。このことは思慮のある人の疑い得ないことである。・・・
この制度がもつところのもっと現実的な困難は、社会の労働を各成員に公平に割り当てることの困難である。(略)
このような困難は、実際に存在することは存在するであろうが、それにしても必ずしも打ち勝ちがたいものではない。各個人の体力と能力とに応じて仕事の割り当てをなし、一般原則が極端な作用をする場合にそなえてこれを加減するということは、人間の知性の―それが正義感によって導かれる場合―よく解き得ない問題ではない。そもそも平等を念願とする右のような制度において、この点についてなされる施設は、そのもっとも拙劣にしてもっとも不公正なものでさえも、今日における労働の割り当て(報酬の割り当てのことはいうに及ばない)の不均等と不公正に、ほとんど比較してみる価値もないほど些細なものであろう。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.229)
(当時の労働の割り当てに較べれば、平等と公正の観点を重視するのなら、共産主義社会のぎくしゃくなど問題にならないという見方である)
【ミル『経済学原理』】
「またわれわれはこういうことを忘れてはならない。すなわち一の社会制度としての「共産主義」は今日ただ観念上に存在するに過ぎず、今のところその能力よりもその困難の方がはるかによくわかっており、また人間の知能はいまようやくこれを組織する方法の細目を構想し、その一方を克服して、他方から最大の利益を引き出そうとしはじめたばかりだということ、これである。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.230)
(端的に言えば、まだ共産主義をめざすべきではなく、産業資本主義的私有財産制のメリットを活かすべきという言明である)
【ミル『経済学原理』】
「働いて生活必需品を得ることすら確実に期待することができない―もしもこのような私有財産の制度と「共産制」と、そのいずれを採るかということであれば、「共産制」の難点は、大小すべてのものを合しても、なお衡器の上に落ちた羽毛に過ぎないであろう。
しかしながら正当な比較を試みるには、最善の状態における「共産制」と、現状のごときではなくて、理想的な形における私有財産制とを比較しなければならない。そもそも私有財産の原理というものは、どこの国においても、いまだかって正しい試験を受けたことがないものである。おそらく他のいずれの国よりもわが国において特にそうである。近代ヨーロッパの社会制度は、公正な配分の結果である、あるいは勤労による獲得の結果である財産の分配をもってではなくして、征服と暴力の結果としての財産の分配からはじまったのである。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.231)
【ミル『経済学原理』】
「そもそも私有財産制弁護論にして正当なるものは、私有財産は報酬と努力との間に均衡があるという公平の原則に基づいていると前提しているのであるが、私有財産制の最後の結着について判断を下すには、われわれはまずこの制度をして右の公平の原則にそむくような作用をなさしめるすべての事柄が是正されてあると仮定しなければならない。
われわれはまた二つの条件―この二条件がそなわっていなければ、「共産主義」にせよ、その他どのような法規あるいは制度にせよ、必ずや人類の大衆の生活を零落し窮乏化した生活となさざるを得ないであろう―が実現されてあると仮定しなければならない。この二条件の一が教育の普及であり、いまひとつは、社会の人口の適度なる制限である。これらの条件がそなわっていれば、現在の社会制度のもとですらも、貧困というものは存在し得ないであろう。またこのように仮定すれば、「社会主義」の問題は、社会主義者たちが一般にいうような、今日人類を圧倒している各種の弊害を免れる唯一の避難所に飛んでゆくという問題ではなくなって、ただどちらがすぐれているかを比較するという問題、したがって将来がこれを解決すべき問題となってしまう。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.233)
【ミル『経済学原理』】
「問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。社会の現状においては、「共産主義」的制度の場合よりも、教育および職業ははるかに多種多様であり、全体に対する個人の絶対的隷属の度ははるかに低いが、その社会の現状においてさえ、輿論の力や個人の隷属はその著しい弊害のひとつとなっている。平凡人の軌道を逸していることが非難される社会は、決して有益な社会とはいえない。「共産主義」の企画は、果たして人性の多辺的発展、種々さまざまな不等性、趣味や才能の種々相、見地の多様性―これらのものは単に人生の関心事の最大部分を成すばかりでなく、人々の知能を互いに衝突させて刺激し、各人に対しひとりでは思いつかなかったであろう見解を数多く示すことによって、精神的道徳的進歩の根本動力となるものである―と両立するかどうか、なお将来においてこの点が確かめられなければならない。」(ミル『経済学原理』からの引用:P.233)
(マルクス−レーニン主義の結末を彷彿させる疑念である)
8/1/20

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