ユダヤ教・正統キリスト教・イスラムといった啓示宗教と比較して、「日本には宗教の規範がほとんどない」と判断されるのは錯誤です。
超越神啓示宗教ではないかたちの規範意識で歴史を築いたことこそ、日本の好ましい特質として見直すべきだと思っています。
宗教は、世界観や人々の関係性(社会の在り方)についての価値観などを包括的に提示したものです。
日本では神道や仏教という自然との関わり方や自己の存在についての宗教的考えは根付きましたが、人々の関係性(社会の在り方)はミニマムの規制しか必要とせず、ほとんどが日本的共同体のなかで形成される自律的な規範意識(自覚的にというより自然で当然のこととして持たれた)で済んだのです。
前近代の日本人の多くは、絶対的な神の“脅迫”として人々を律しなくても、生まれ生活していくなかで醸成される価値観で自分の振る舞いを律することができたのです。
教育勅語現代語訳の
「子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や,秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」
は、国家があれこれ説明しなくても、日本の共同体のなかで生まれ育った人の多くは、それが自分のためにもいいことだと思いやってきたことです。
そして、「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕」は、その直接的な役割を武士という職業階層に委ね、その活動を支えるために年貢などを負担したのです。
逆に言えば、このような当たり前のことまで国家が言わなければならないことが「近代日本」の奇妙な変容を示唆してます。
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空虚な言葉ではなく、国家社会の在り方そのものの問題 【日本に宗教規範がないわけではなく啓示宗教とは質が違う宗教なのです】投稿者 あっしら 日時 2003 年 6 月 24 日
「戦後に教育勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています」
というのは、教育勅語の有り無しの問題ではなく、そのような振る舞いのほうが自分のためにいいことだと思える国家社会の在り方になっていることから生じているのです。
政治家・官僚・企業経営者などの生活振りと振る舞いを見較べたり、法や税制を考えたとき、教育勅語的な生き方が、誰にとって都合がいいものであり、自分にとっては有利なのか不利なのかを考えるのは当然です。
単身赴任をせざるを得ない条件の人を配置転換するのは、「夫婦は仲睦まじく解け合い」という教育勅語の価値観に反しています。
「敗戦責任」や「バブル責任」をとらないまま大きな顔をして支配層がはびこっている日本で、支配層が教育勅語の精神を云々するのは笑止千万です。
売国的政治家でも、ひとには愛国主義を唱えるのです。
● 「現代日本はアノミー状態」
現在の日本がアノミー状態だとは思っていませんが、私の価値観や規範意識からはますます遠ざかっているとは思っています。
Ddogさんはその原因を教育勅語の“不在”に求めていますが、そのような精神主義は、太平洋戦争で「日本は物質的な力で米国に劣っていても、類稀なる神国日本臣民の精神力でそれを補い勝利できる」と妄想した支配層やそれに同調した人たちと同じ誤りです。
Ddogさんが、共通の価値観がなくなったように見え、無規範的状況になったと判断されるのは、戦後日本の国家支配層が、Ddogさんの価値観や規範意識とは異なる価値観や規範を醸成したり制度化してきたからです。
現代日本がアノミー状態と判断されるのは、Ddogさんがアノミーだと判断される価値観と規範が日本を覆い尽くそうとしているからであり、実際はアノミー状態ではなく別の価値観と規範に適った状態なのです。
しかも、国民(被支配者)が、わがままや欲求のおもむくままにそのような価値観と規範に流れていったのではなく、国家(支配者)が、そのような価値観や規範になるように誘導してきたのです。
「お金を儲けることは良いことだ」・「儲けたお金は儲けた人のものにできるだけなるべきだ」・「金融取引や金貸しだろうが儲けることに規範的差異はない」・「雇用されたり事業を営むのは家庭を維持することよりも価値があることだ」・「お金儲けや統治・学問の分やで能力が乏しい人が困窮するのはやむをえないことだ」・「国家は自由な経済活動を擁護することに徹し規制をすべきではない」・「国益のためには自己犠牲も厭わないようになるべきだ」などの方向に価値観を誘導しながら、“誰もが踊ったと強弁して支配者はバブルの責任をとらない”・“愛国心や国家への奉仕を唱える政治家が私的利益の拡大に走っている”・“たまには摘発されるが、有力政治家が絡む犯罪は見逃されている”・“金融取引でも有力者には損失補填が行なわれている”・“同じことをやっても信用組合の経営者は背任罪だが都市銀行の経営者は罪を問われない”・“詐欺を働いても有力企業は詐欺罪ではなく軽い罪に問われるだけだ”・“政治が絡んだりコネが有効な業界には、遊び呆けている有力者の子弟が採用されている”・“家に帰っても両親ともなかなか帰ってこない”などの現実のなかで生きていけば、どのような価値観や規範意識を持つようになるかは想像の範囲です。
“今風”の価値観や制度は、82年に成立した中曽根政権以降明瞭かつ強力に押し進められてきました。
私は、そのような国家の誘導が20年も続きながら、制度はともかく、国民多くの価値観はそれほど変容していないと受け止めており、日本人の賢明さを誇らしく思っています。
“今風”の価値観や制度の上でアノミーな振る舞いをしているのは大手企業を含む事業者であり、国民の多くは、それを苦々しい思いと少しはうらやましい思いで眺めているのです。
若い人たちも、この間の就職事情に照らせば、“無軌道”に走らず耐えていると感心しています。(経済苦で自殺を選択する人もそうですが、“無軌道”に走って国家社会に混乱を起こすよりも耐える道を選ぶということでしょう。それが日本の状況をさらに悪化させているということは否定しませんが...)
戦後日本で国家支配層が醸成してきた価値観や建前的規範の実際的運用に照らしたとき、Ddogさんがアノミーと判断される現実が、教育勅語の導入で変わるとはとうてい思えません。
現在の政治的支配層が教育勅語の導入して得られる効果は、せいぜい、おとなしく現状に甘んじ隷属状態を打破する動きをしない国民を少々増やすだけというものです。
政治的支配層や有力者は、国民多数に押しつけた教育勅語的規範をせせら笑うような行動を大手を振って続けます。
● 宗教規範
>Ddog:あっしらさんは、コーランやタルムードにも詳しいはずですよね。内容はどうでしたか?物を盗むなとか、結婚するときはこうしろとか、彼らの価値観からすると、非常にわかり易い常識のマニュアル本である側面があることは知ってますよね。コーランは、アラブ人の自律的な規範意識に基づき、マニュアル化したともいえる内容があります。マニュアルかしたからこそ世界宗教へと脱皮できたのです。教育勅語は、日本の自律的な規範意識を文章化した経典的性格があると、主張しているのです。
レスをいただいた書き込みで引用もしていただいている、「前近代の日本人の多くは、絶対的な神の“脅迫”として人々を律しなくても、生まれ生活していくなかで醸成される価値観で自分の振る舞いを律することができたのです」と書いたように、同じ規範意識を持つとしても、それがどのように定着していったかで大きな違いがあると思っています。
コーランは、宇宙を創造しその動きを司る全知全能の絶対的存在である人格的超越神からの啓示として規範を提示し、それに背反したときは、最後の審判でゲヘナ(無間地獄)に追いやられるとしています。
コーランに書かれているような規範を定着させるために、そのような“脅迫”が必要だったのです。
コーランに書かれている内容は、アラブ人の自律的な規範意識に基づいたものというより、“脅迫”と強制力によってそのようにやってみたら、以前よりも良くなったじゃないかという実感で血肉化され継承されてきたと考えています。
飛躍的に言えば、遊牧&商人世界アラブは、イスラムによって、“今風”の日本そして「近代」を軌道修正したのです。(隊商は商人集団であるとともに武装集団であり、ときには強盗にも変わるものでした)
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