「近代経済システム」と科学技術:近代的預金と「信用創造」 1 から続きます。
● 預金に利息が付く不思議
預金しているのだから利息が付くのは当たり前だと考えるのは、近代人の証拠である。
文字通りを考えればわかるように、金を預けるのだから、コインロッカーに物を預けるときに通貨を支払うように、預け代を支払うのが本来的な“筋”なのである。
金本位制以前の預金は、金貨を自宅に置いておくことに不安を感じる金持ちが手数料を支払って銀行家に保管してもらっていたというものである。
お利口な銀行家は、預かった金貨をそのままじっと保管しておくのではなく、引き取り客に対応できるようある程度の金貨を残しつつ、その他は貸し出しに利用した。
もちろん、利息がついた貸し出しである。金貨を預けた客からは手数料を受け取り、その金貨を他人に貸し出して利息を取って二重の利益を得たのである。
預かった通貨を経済取引に利用するというのが、「信用創造」の起源である。
通貨一つ一つに識別が付いていないことが幸いである。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。ご協力お願いします。
このようなことを行っても、不意の引き取り客に対応できるだけの量の金貨が手元にあり、貸し出した金貨が最低でも元本ベースで返済されるサイクルが続けば、誰も文句を言わないし問題も発生しない。
(元本だけでも返済されれば、利息という利益を得られなかっただけで済む)
しかし、貸し出しの利息はおろか元本までが返済されない事態に陥ると様相は変わってくる。元本の未返済が自己資本(自分の金貨)を超えると、手数料をもらって預かっている金貨を返せなくなる。
そうなった銀行家は、夜逃げをするか、罰を喰らうか、殺されるような目にあうかである。
いつからかは明確ではないが、金本位制になってからは、ある種の預金には利息が付くようになった。
銀行がわざわざ利息を支払ってまで預金をしてもらうというのは、それが見合う経済合理性があるからである。
預かった通貨だからとまじめに考えてそのまま金庫にしまっていても、その通貨量が増えることは経済的的には絶対ない。
貸し出しや投資を通じてのみ、銀行の保有通貨は増える。
預金に利息が付くのは、預かった通貨を貸し出しや投資に使って、支払い預金利息よりも多い収益が得られるからである。
● 自己資本比率やBIS規制の意味
「バブル崩壊」後の日本では、金融システムの危機や銀行の破綻が問題になり、銀行の財務状況が連日のように報道されている。
そのような報道のなかには、“自己資本比率”や“BIS規制”という数値や表現も出てくる。
その算出方法や内容をおくとして、“自己資本比率”や“BIS規制”は、銀行が預かった通貨をどれだけリスク(未返済の可能性)があるものに使っているかの指標でありどれだけ使っていいのかという規制である。
商業銀行は、まず、個人金融業のように、自己資本を貸し出して自己資本を増殖させることができる。
この場合は、不良債権が生まれても、その銀行が損失を被るだけである。
さらに、商業銀行は、中央銀行から貸し出しを受け、その通貨を別の経済主体に貸し出すことでも資本を増殖させる。
別の経済主体に貸し出した利息と中央銀行に支払う利息の差が、資本増殖部分になる。
このような通貨を使った経済取引で不良債権が生まれると、その銀行が損失を被るだけでは済まずに、中央銀行までもが損失を被る可能性がある。
(無価値のものを貸し出しているのだから、損はないように思えるが、返済されてこないということは国民経済のどこかに存在していることであり、それを補うために通貨を発行すると通貨の価格表示機能を弱めることにはなる。しかし、管理通貨制であればいかようにも通貨の価格表示機能を調整できるのだから結局はモラルの問題に帰す)
しかし、日本経済をマクロ的に見ると、00年の銀行預金残高総額が486兆円なのに対し銀行貸出残高総額は464兆円であることからわかるように、ほとんどの貸し出しは預金で賄われているとも言える。
(普通預金は回収日(給料日)がピークで、経済主体では支払い日に底に達し、個人では徐々に引き出されていき、次の(入金日)給料日を迎えるという構図だから、決済性預金は貸し出しにはあまり使えないものであるが)
(92年から98年は預金残高よりも貸出残高のほうが多く、この期間の“異常性”が窺われる。58年から00年までの期間で貸出残高のほうが多いという状況は、92年から98年の間のみである。92年から98年の間に投入公的資金を含む不良債権処理原資を貯め込み、99年から不良債権処理=過剰債務企業の破綻と“貸し渋り”・“貸し剥がし”を大々的に進めて財務状況を正常化していった過程が見える)
預金を使った貸し出しに不良債権が生まれ担保権の行使では全額が回収できなかったり、預金を使った投資で確定の損失が生じると、預金の払い戻しに応じきれないという事態に陥る。
そのような事態を、公的資金を基礎とした保険(補填)で、全額対応するか、それとも、まったく責任のない預金者に罰を与えるがごとくある限度額にとどめるかという話が、「ペイオフ問題」である。
(政府は、問題をすり替え、銀行経営者のモラルと結びつけてペイオフを語っているが。こうして考えれば、不良債権の定義が「利払い状況」になっているのも不可思議である。利息は銀行の収益源であり、預金が使われているのは元本部分である。元本が返済される見込みがあるのかないのかが不良債権の基準でなければならない)
銀行の貸し出しは、私的経済主体に対してだけではなく、中央及び地方という政府に対しても行われている。
いわゆる国債を始めたとした公債の引き受けや直接の貸し出し行為である。
銀行は、このような公的機関に対する債権を150兆円以上保有していると見られる。これは、預金残高総額のおよそ30%に相当する。
(ここでは簡単にとどめるが、経済活動を自立完結的に行っている経済主体のほうがスムーズに債務を返済できる可能性が高く、究極的には税収に依拠している擬制経済主体である政府のほうが債務返済は困難である。税収を上げようと考えて増税を実施すると、経済主体の経済活動を阻害するため、税収は逆に減少してしまうという事態に陥ることもある)
このように考えていけば、“金融危機”の源は、銀行が預金を使って貸し出しや投資を行っている「信用創造」だということがわかる。
銀行が、自己資本や中央銀行からの借り入れを原資に貸し出しや投資を行っている限りにおいては、銀行が破綻しても、預金が戻ってこないということはない。
(貸し出しは担保にとって行われているので、担保権を行使すれば、未返済であっても問題は起きないはずだが、銀行が貸し出しを通じて「バブル」を形成したのだから、その崩壊で担保物件の価額も大きく減った。このように政府が考えているからこそ、土地や株式といった金融資産を買い支えるという妄動を行っているのである)
経済学を学んでいる方であれば、書いていることはわかるが、「信用創造」は、マクロ的に存在する余剰資金を有効活用する唯一の手法だと言われるであろう。
しかし、経済論理を考えるに当たっては、はいそうですねというわけにはいかない。
「信用創造」とは何であるかを経済論理的に解き明かす必要がある。
比喩的な結論を言うと、「信用創造」とは、断りをしないまま預金者を強制的に銀行家にしてしまう行為であり、預金者に断りなく預金を使ってしまう行為である。
これを明白なかたちで晒したのが、「バブル崩壊」後の“金融システム危機”であり、公的債務規模が示している危機的な状況である。
預金をしている人は、自分はお金を銀行に預けていると考えているだろう。
しかし、経済論理に照らせば、預けたお金は、自分が了承しないまま使われてしまっているのである。
銀行が一般経済主体に貸し出した通貨は事業の拡大や継続のために使われ、銀行が政府部門に貸し出した通貨は、公務員を雇ったり財を購入するために使われたり、従来からの債務に対する利払いや償還に使われる。
知らない間に、自分が預けた通貨が、国民経済内はおろか国際的にもぐるぐると使われながら回っているのである。
ぐるぐるであっても、まわり回って自分のところに戻ってくるのが、“正常”な経済状況と言えるものである。
現在の日本のような経済状況では、銀行が行ってきた「信用創造」をとんでもないことだと思う方もいるかも知れないが、日本経済が敗戦の荒廃から見事に甦ったのは、そのような経済行為が行われたからこそである。
7/2/15

5