● 戦後日本のインフレーション − 国際為替変動レート制 −
“ニクソンショック”で主要な外国為替市場が閉鎖される(日本だけは開き続け“高値”で40億ドルも買い支えた)という国際通貨危機を経て、円は1ドル=308円の固定レートに切り上げられ、1973年2月になると、外国為替は変動レート制に移行した。
1ドル=308円は、前述した例のような360万円の製品が1万1688ドルになるので、為替レート分の値上げが通じず同じ1万ドルでしか輸出できないのであれば、円ベースで308万円の手取りにしかならず、1ドル=360円時代に較べれば利益の減少につながる。
しかし、支配力を持つ国内販売部分は、360万円もしくはインフレ率相当の値上げをした価格で販売できるので、利益は減少しない。
当時の世界であれば、国際競争力に関しては“心理的”な影響だけである。
だからこそ、72年には、減少した単価利益を量で補うために、輸出が拡大され対米貿易黒字が倍増した。
そして、日本の産業家は、「高利益源の日本市場」を後ろ盾に、さらにいっそう生産効率を上げて国際競争力を高めていった。
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田中角栄元首相の「日本列島改造論」は、このような時代的背景で熱狂的に迎えられた「内需拡大」政策である。
しかし、これは、ケインズ的政策の“急拡大版”であり、経済的合理性を欠くものだった。
GDPにおける政府固定資本形成は、対前年比(名目ベース)で71年24.0%・72年24.4%・73年26.1%で、通貨供給量は、対前年比で71年20.5%、72年26.5%、73年22.7%であった。
一方、GNP(国民総生産)は、71年(名目)10.2%(実質)5.1%、72年(名目)16.6%(実質)9.3%、73年(名目)12.1%(実質)−0.7%と推移した。
「日本列島改造」政策は、財政支出拡大と金融緩和策で推し進められたものであり、短期的な経済成長をもたらしはしたが、“石油ショック”(原油を支配する国際金融家に仕組まれたもの)があったとは言え、復興後の日本で初めてのマイナス成長をもたらしたのである。
日本は、「列島改造景気」から大学卒の一大就職難(昭和50年:1975年)に象徴された大不況に陥った。
日本の戦後高度成長は、1973年をもって完全に終わったのである。
高度成長の終焉過程は、1971年“ニクソンショック”→1972年田中内閣成立→「日本列島改造景気」→1973年2月変動レート制移行→1973年10月“第一次石油ショック”→「狂乱物価」→「一大不況」という流れで進んだ。
好況は短命だったが、「列島改造政策」で生じた通貨供給量の拡大は、企業に厖大な資金(流動性)をもたらし、「列島改造論ブーム」を受けて土地や株式への投資が膨らんでいった。
不況で鈍化することはあっても、日本の地価と株価は上がり続けたのである。
これが、10年を経て到来するバブル形成の下地をつくったのである。
戦時経済統制法が本格的に施行され始めた1937年から続いてきた官僚統制による国家運営は、1973年のマイナス成長で大きな軌道修正を迫られたのであり、最後のあだ花が「日本列島改造景気」だったのである。
端的に言えば、国家運営を政治家でないまま主力として担ってきた官僚機構は、1973年からできるだけ早い段階で「高度成長神話」を捨て去り、新しい日本のあり方を考え、それに基づく国家政策を策定しなければならなかった。
しかし、日米開戦や厖大な犠牲者を伴っての敗戦占領という国難の歴史が遥か遠くの出来事と感じられるようになるとともに、「高度成長」という成功物語に酔いしれていった官僚機構と政治家は、緊張感や危機感が希薄になり、高度成長がこれからも続くものだという前提(錯覚)にとらわれ、“刹那的な利権”を追求する政治家と手を携えて従来的国家政策を採り続けたのである。
変動レート制のなかでも、さらに言えば、一大不況期においても、インフレは続いた。
経済成長を志向する限り、現在のデフレ不況でわかるように、経済活動を活発化するインフレは不可欠である。
経済関係が深い諸外国が同じようにインフレである限り、それは問題にならない。
世界は、日本を除き、今なお一貫としてインフレを続けている。
「輸出国家日本」は、変動レート制であれば、本来、国際競争力が維持される範囲でできるだけ円高であるほうが望ましい。
まず、原材料が安く手に入る。次には、輸出製品をこれまで通りのドル建て価格で売れば手取りの円は少なくなるが、過剰な流動性が生まれにくくなるので、インフレが抑制され、投機的投資も減少する。
さらには、輸出利益が縮小するので過剰な輸出を控えるようになり、「列島改造論」とは違ったかたちでの国内需要拡大策を追求するようになる。
円高で困るのは、国際競争力の劣化だけである。
しかし、これも冷静に見れば、日本・ドイツ・米国という工業主要国は“棲み分け”をしているから、それほど問題にはならない。
日本は自動車を見てもわかるように普及品を主として担当し、ドイツは高級品や医薬化学・一部生産設備を主として担当し、米国は自動車は米国向け仕様で航空機・軍需品・コンピュータを主として担当している。
一時期の家電や半導体を考えればわかるように、あれだけの円高になっても、世界市場でとてつもないシェアを確保していたのである。
米国の主要産業さえも、ある時期から日本の半導体に依存するようになった。
アジア地域の工業製品は、日本企業が主として生産している上に製品も差別化されており、円高になったからと言って、国内市場でも国際市場でも日本の競争力を脅かすものではない。
「円安期待論」は、唯一意味がある産業家の利益拡大にすがる論理であり、産業家の利益から発した論理であるが故に国際競争力の低下=利益の低下と考えられがちで、その利益が勤労者の実質賃金上昇につながりにくい。
結局、円安で獲得した過剰利益は、これからもずっと上がり続けると信仰している土地や株式に向かっていく。
(「簿価会計」であり、戦後まもなくの「資産再評価」以降「資産再評価」を行わなかった日本は、右肩上がりの土地や株式を保有することは“含み資産”を拡大させる“良き経営”だと企業に思わせてきた)
「輸出国家ドイツ」はマルク高を志向し、「輸出国家日本」は円安を志向したという対照的な政策の功罪をきちんと見直す必要があると考えている。
そして、それを基に、今なお叫ばれている「円安待望論」を検討すべきである。
このような“円安信仰”のなかで、1985年9月に“バブル形成”と“バブル崩壊”を準備した「プラザ合意」が取り交わされた。
「プラザ合意」の基本は、ドル高=円安の是正であり、その結果、1ドル=260円台から1ドル=120円と、日本円は対米ドルレートで急騰した。
1978年に起きた“第二次石油ショック”と日本の貿易黒字増大で、米国に資金が引き寄せられたためドル高が進んだ。
1978年の1ドル=300円から1978年の190円まで高騰していた対米ドルレートが、ずるずると円安に動き1ドル=260円まで安くなっていた。
“第二次石油ショック”は1978年にイランのホメイニ革命を契機として起き、1980年にイラクのフセイン政権が仕掛けたイラン−イラク戦争(88年終結)という「長期の有事」のために、米ドル及び米国に資金が集まっていった。
石油ショックによる原油高騰で米ドルを大量に抱えるアラブを中心としたオイルマネーと製品輸出で厖大な余剰資金を抱える日本企業が米ドルに転換して、債券を中心とする対米投資にいそしんだことでドル高が維持された。
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