■ 「右翼」や「左翼」について
「右翼」や「左翼」という概念が一人歩きしている状況は、物事をわかりにくくするまずいことだ思っています。
前回の内容も、概念規定を怠ったまま「右翼的動き」と断罪すればいいという左翼的雰囲気を問題にしたもので、右翼思想がいいとか右翼思想を復興すべきという話ではありません。
端的には、ファシズム・ナチズム・戦前日本的思想(陸軍&革新官僚)が悪魔視されたり無効化され、先進国支配層の価値観や政策から廃棄されていながら、支配手段としては国家(国益)が持ち出されている現実のほうが重要だということを言いたかったのです。
“彼ら”の判定になる思想の善悪にそのまま乗っかったり、支配安定化の手段でしかない支配層の言説を目的であるかのように錯誤した対抗軸では対抗力にならないと思っています。
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「右翼思想」やフェミニズムについて:「女性の社会進出」は“女工哀史”の普遍化状況を生み出した。投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 13 日
ファシズム・ナチズム・戦前日本的思想(陸軍&革新官僚)が“彼ら”の策動で醸成された部分があるとしても、近代的発展に箍が嵌められていた当時のイタリア・ドイツ・日本の支配層が箍を撃ち破る政策を正当化するために持ち出した思想を、それが引き起こした大災厄に対する嫌悪からただゴミ箱に捨て去るのは安易な思考態度だと思っています。
(結末は悲惨な敗北でしたが、庶民の多数派もそれらの思想や政策に活路や希望を見出したのです。それを、たんに騙された愚かだったで済ましていいものだとは思いません)
そして、戦後世界において、なぜあれほどまでに右翼思想が憎悪の対象となりその政治的現実化の動きが“叩き”の対象になっているのかについても、一歩引いて考える必要があると言いたいのです。
(“彼ら”は、諸国民が国家という枠組で強固な関係性を築くことを恐れ、その思想的基礎になり得る右翼思想を忌避する気分を意識的に醸成しているのではないかとか、ナチス・ドイツの非戦略的蛮行も忌避気分を確固たるものにするために“彼ら”との合作として行われたのではないかといった疑義を持つことは、ナチズムを受け容れる受け容れないに関わらず意味があると思っています)
(そのようなことをなぜ重要だと考えているのかは、これまでのやり取りをお読みいただければわかるはずです)
>この点はちょっと良くわかりません。現在とは違うということなので、過去の話をされているのだろうと思いますが、どの国のどの時代のことを指しておられるのでしょうか。支配層の“利益“としてだされたのなら、やっぱりそれは支配層の”利益“であるのでは?どのような条件があれば、諸個人の”利益“にもつながっていくのでしょう。経済システムの問題でしょうか?
近代的発展に箍が嵌められ追い詰められた近代国家の支配層が行き着いたのは、資本家の利益ではなく庶民(被支配層)の利益を重視することで、自分たちも資本家も利益になるという考え方です。
戦後日本の高度成長は、戦前の革新官僚が構築した「統制経済」を基礎として成し遂げられました。(大正期や昭和初期のような「自由主義経済」であれば、高度成長の条件を活かすことができずに終わった可能性もあります)
もちろん、戦前も戦中も戦後も、国策がもたらす利益を最大限に享受したのは資本家や支配層であり、庶民はそのおこぼれを貰う存在してありませんでした。
しかし、この10数年の日本の庶民は、おこぼれを貰うどころか、失業・所得減少・公的負担増加という吸い上げられ、その一方で、支配層や有力資本家はより多くの利益を享受しています。
政治家や官僚そして経済学者や経済評論家のなかには、日本の経済的低迷の要因として“官僚統制”を第一に取り上げる人たちがおり、そのような言説を浅慮のまま信じる庶民もいます。
浅慮に信じる基礎に、戦前・戦中の悲惨な歴史がどこまであり、官僚や政治家の私利私欲的行動がどこまであるかはわかりませんが、国家(統制)主義的考えへの忌避意識はそれなりにあると思っています。
戦前も戦後も、日本を貫いている経済論理は基本的に同じです。
人々が今を生きているのなら、そして、移行の準備ができていないのなら、それが支配層の利益に貢献するものであっても、庶民もおこぼれには与れる国策を採るしかありません。
「左翼」が、そして、私がどんなに「近代」(資本主義)の非道を主張したとしても、それで、経済論理が変わるわけではなく、庶民がおこぼれに与れるわけではありません。
そして、経済論理を無視した政策で庶民の利益を増加させたとしても、それは一時的なもので、中長期的にはより大きな損失を与える結果になります。
>ここでの議論では、グローバリズム=右、なのですか?
つまり、「アメリカニズム」=国家主義ってことですか?
でも、それだと「アメリカの国家理念」がたまたま「民主主義・人権・平等・自由」だったわけで、これらの「左翼的」価値観をもっていることが「右翼」であるという変な理屈になりませんでしょうか?間違っていたらごめんなさい。左翼のことは理解しましたが、右翼のことがよくわからなかったもので。
グローバリズムは、「右」や「左」ではなく、“彼ら”の価値観(利益)の世界化を正当化するための思想であり、それを制度化するための理論です。
「民主主義・人権・平等・自由」も、“彼ら”の価値観(利益)に基づく標語(スローガン)です。
(右翼思想と「民主主義・人権・平等・自由」は必ずしも敵対するものではなく、そのような抽象的価値観を至上のものと考えるのではなく、歴史を生きる国民の有機的構成体としての国家の利益を優先するのが右翼思想です。だから、ある条件で「民主主義・人権・平等・自由」が公権力によって制限されることを容認します)
「右」も「左」も、基本的に、“彼ら”の掌の上で踊っている(踊らされている)思想です。
(ナチズムは、運動としては“彼ら”の掌の上で踊りながら、思想的には“彼ら”を寄生者として敵視した稀有な思想だと思っています)
「アメリカニズム」は、米国庶民の実状を考えればわかるように、国家主義ではなく“彼ら”の価値観や政策を米国庶民に納得させるための空虚な説明手法でしかありません。
「右翼思想」は、グローバリズムに対抗する一つの手掛かりになるという意味で取り上げています。
政治(軍事)力による支配領域の拡大が利につながらないことや戦争遂行体制の要件である「民主主義・人権・平等・自由」の制限は米国以外には不要であることは論証できますから、かつての「右翼思想」から、それらと国家や民族といった抽象的存在に対する価値性付与を削ぎ落とせば、現在において有効な国家運営の考え方を抽出できるだろうという提言です。
逆に、無思慮に「右翼思想」をおぞましいものとして忌避する態度は、そのなかに潜んでいる有効な理論をも一緒にゴミ箱に放り込む愚挙につながると思っています。
(新自由主義やケインズ主義を持ち出す人はいても、ナチスの経済理論や“日本型統制経済”を現在的条件のなかで再構築して持ち出す人はいない現状がその一つの反映だとも思っています)
8/1/23

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