「「女性の社会進出」は“女工哀史”の普遍化状況を生み出した。」
その他
■ フェミニズム関連
「先にも述べたように、生物学的性の配置が問題なのではなく、その権力構造の仕組み自体を焦点にするという観点が明らかにならなければならないということです。
しかし
、「
生身の人の力に依存する割合が高い軍事力や強制力が支配の究極的支えであれば、その担い手の主力が男性になることはある意味で“自然”です」
という言明にはちょっと異議もあります。主力が男性になることは「自然」であっても、主力になる以上のさまざまな「意味づけ」「秩序」が男女の間に作り上げられているからです。それは「自然」とはいえない。
その点を問題視して、性差によっても作られている権力構造を明示化するために、「男社会」といったような概念を用いる必要もあったのかなとは思います。それが配置換えだけで社会が変わると思うようになってしまうのは、確かに楽観的なものの見方です(女性議員の増加というような数値は、とりあえずの努力目標としてはわかりやすくもあるのですが)。」
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「右翼思想」やフェミニズムについて:「女性の社会進出」は“女工哀史”の普遍化状況を生み出した。投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 13 日
その担い手の主力が男性になることはある意味で“自然”だったから、その後にその安定化と強化をはかるため、「意味づけ」「秩序」が男女の間に作り上げられたのであり、決して、その逆の順序ではなかったと思いませんか?
そして、必要条件から自然的性差の選択が行われたのなら、権力構造の明示化は、そのような自然的性差を必要とした要因を明確にするものではなければならないのではないですか?
後から様々に意味付けられ秩序意識にまでなったことをもって「男社会」と命名するのは、表層的過ぎるとは思いませんか?
女性が男性の占めていた地位を手に入れるようになれば解決するというのは、前近代の支配層であった貴族を放逐する代わりに庶民が“戦士”になる程度の話だと思っています。
貴族でなく庶民も“戦士”になれることを実証した意味はそれなりにあると思っていますが、女性が男性のものであった地位に就くというのも、その程度の意味でしかないのではないかと思っています。
「理屈としては「性差超越性」が生きている社会であっても、「支配−被支配関係構造」のなかの配分・配置原理に「性差」による配分・配置原理が密接に関連していれば、結果としては不均衡な状態が生まれでるということです。
家事・育児を女性のみがやらなきゃいけないという論理は、結果的に女性を学者や官僚にしにくくさせます。もちろん、その役割を女性が放棄(あるいは他者に委託)すれば、学者にでも官僚にでもなれるでしょうけれども(余計な罪悪感のおまけつきだったり)。」
今の日本で、男性がそれをめざすことで不利益になるという現実はあっては、「家事・育児を女性のみがやらなきゃいけないという論理」は希薄化しているというか、“二人の問題”になっていると思っています。
(育児の問題は深刻ですが、家事に関しては間違いなく“二人の問題”になっていると思っています。“常識”としては、家事をしない男は悪いという評価になっています。“専業主義”に男も家事を手伝って当然だと言える気分を醸成していることを笑っています)
それが女性の昇進や重用を避けさせているという現実があることは認めた上ですが、女性であれば、家事や育児で残業や休日出勤を忌避しても仕方がないという受け止めの範囲ですが、男性がそうすると、白い眼や異様な反応をされ、あいつは重用できないと判断される傾向があります。
これは、どちらにしても、家族の問題を持ち出して仕事を忌避することは好ましくないという論理であり、性差による論理とは言えないと考えています。
「家族の問題を持ち出して仕事を忌避することは好ましくないという論理」が、女性一般に対しては将来そういう立場になりそうだから重用を控えるという対応を生み、男性に対しては個別的にそういう立場をとる男の重用を控えるという対応を生んでいるのではないでしょうか。
(女性一般に対する見方ですから、キャリア志向の女性が子どもを生まないと選択してもなかなか重用されないという問題はあります)
「そもそも「女性の社会進出」って言葉自体がおかしいんですよね。女性だって子どもだってずっとながらく「社会」の一員だったわけですからね。もし、この世の生業が雇用労働を中心とするものになっていってしまったのなら、食い扶持を稼ぐために女性だって職業労働をしなければならないはずです(養い手を持たない女性はそうするしかないわけで)。食べていくための仕組みが変わったんだったら、どのような人でもある程度問題なく食べていけるような社会の仕組みが作られてもいいのにそうじゃなかったというのは、おかしいことだったと思います。そういう意味では、フェミニズムの主張は的を射たことだったと思っています(ただし、「男性」が敵になってしまったのは間違い)。
「次世代再生産」を含めた「再生産」機能を誰が担うか、という配分の問題にはやっぱり「性差」についての考慮ははずせないとは思っているのですけどね。」
米国そして日本もそうですが、「女性の社会進出」を賛美する論調が男性のみならず女性の実質所得(給与)を押し下げる役割を果たした事実を無視することはできないと思っています。
平均生活レベルを維持するためにパートタイム勤務を含めて夫婦共稼ぎをしなければならない状況を拡大したのは、「女性の社会進出」が増加した“成果”です。
夫の稼ぎで平均生活レベルを維持できるように給与を支払わなければならなかった企業主が、妻も働けば平均生活レベルを維持できる程度の給与を支払うことで済ませられるようになったのです。
「今の給与ではまともな生活ができない」と言ったら、「あんたの奥さんは働いているの?えっ、女性も働くのが当たり前だし、みんな共稼ぎで生活を良くしているんだよ」と応えることが可能になりました。
(生産性の上昇が企業活動に支障を与えないようにするためには、輸出の増加が達成できない限り、生産性上昇の成果を勤労者に還元(給与アップ)しなければなりませんが、女性が社会進出することで少なく還元することで済むようになったのです。
この問題は、とくに女性の進出が多い商業の利潤とは何かを説明するときにもう一度取り上げます)
もしも、女性が子育てをしたり家庭を守るのは重要な社会的責務であり、外で働きたい女性や養い手を持たない女性は社会進出するとしても、夫一人が働いて平均レベルの生活ができるだけの給料を支払えと頑固に主張していれば、夫の給与も生産性の上昇に従って増加し、養い手を持たない女性の給与も多くなっていたのです。
(安い時間給でも働いてくれる人がいれば、強制されない限り、給料を上げないのが企業主の大勢ですし、他がそうしているのに自分のところだけそうすれば競争に負けることになります)
「女性の社会進出」は、夫の給与を夫婦で稼ぐようにし、養い手を持たない女性の給与を低いものにしたのです。
“女工哀史”に見られた過酷で低賃金労働は彼女たちが家計の補助的労働者であったが故に可能だったものであり、「女性の社会進出」は、見た目は違うとは言え、“女工哀史”を社会に拡大するものだったのです。
(“女工哀史”は、近代的発展の途上で産業競争力(生産性)も低かったからあれほどの悲劇だっただけで、現在の生産性を考えれば、今のパートタイマー女性勤労者は“女工哀史”と同じ待遇しか受けていないことを論理的に理解する必要があります)
そういう意味では、経済論理をよく考えないままのフェミニズムの主張は、的を大きく外したと言えます。
念のため、女性の社会進出を悪だと言っているのではなく、支配層はそれを巧妙に利用するものだから、それがもたらした国家社会の変化を安易に評価するのではなく、よくよく考えなければならないという意味での説明です。
8/1/23

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