「「利益」の意味をきちんと考えるのは国民経済主義でも重要なことです」
開かれた地域共同体
「利益」をどう考えるかという問題は、その考察結果を書き現すだけで「経済学体系」になるほど重いものです。
(資本主義経済社会は、経済主体(企業)が最大限の利益(利潤)を獲得するために活動することで成り立っていることを考えれば、当然ですよね(笑))
まず、「利益」は、単純に「収入(売上)−支出(原価+営業経費+減価償却費+支払利息など)」とします。
そして、「利益」は、「税金・配当・役員賞与といったかたちの社外流出」と「内部留保」で処理されるものだとします。
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「利益」の意味をきちんと考えるのは国民経済主義でも重要なことです。投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 16 日
なお、「利益」の本源的由来については、下記:「Re: あつしらさんは今の社会を変革するのを望んでいるのですか?」をとりあえず参照してください。
国民経済主義的に見ても、「利益」は、それが退蔵されるのではなく投資(但し供給活動に)や消費(但し国内での消費)に使われるのであれば「悪」ではないと言えます。
この判断のためには、内部留保のお金がどうなっているのかだけではなく、税金・配当・役員賞与として政府部門や複数の家計に流出したお金がどうなっているかも問われることになります。
さらに言えば、それらのお金が銀行などに預けられている場合は、それらのお金がどうなっているかも問われます。
国民経済主義的観点でも、「利益」を上げることが至上命題であったり「善」と言える経済段階(歴史状況)もあります。
(高度成長期のように、拡大的新規設備投資をすることで、生産性を上げ、かつ、就業者を減らさず、かつ、GDPが増大できるときです。拡大的新規設備投資を借金ですべて賄うと、支払利息のために競争力を失ったり、“不況耐性”が劣化することになるので(この間苦しんでいる日本企業が過剰債務と言われていることを思い浮かべてください)、利益の積み上げである内部留保を持っていることが望ましいからです)
これは逆に言うと、企業を大きくする気がなく、日銭をちゃんと稼げる実力がある企業には「利益」なんか不要ということになります。
しかし、「利益」として計上される前に役員報酬や給料で分配したとしても、投資にも消費にも使われないお金という問題は残ります。(配当も給料もお金であることは同じです。預金するとどう使われるのかわからないというのも同じです)
「利益」が「悪」になるのは、「利益」となったお金が供給活動への投資や国内での消費に使われないときです。
端的には、膨大な経常収支黒字を計上していながら、名目GDPでマイナスになっている国民経済は、「利益」が「悪」になっていると言えます。(この間の日本経済がそれに該当します)
このような経済状況は、「利益」のある部分が使われないで退蔵されていることを意味します。
(株式市場など供給活動につながらない金融取引の場に“滞留”しているお金も退蔵と同じです。買った株式を売って投資や消費に回すのなら無問題)
実を言うと、日本で「利益」のある部分が使われないで退蔵されていることが目に見えるようになったのは、初めてそうなったからではなく、それまでは他の要因で覆い隠されて見えなかったからに過ぎないのです。
(銀行の「信用創造」が覆い隠し続けていたのですが、銀行が機能不全になったためにその覆いがめくれてしまったのです)
経常収支が10兆円を超える黒字で、財政赤字支出が35兆円もあるのですから、銀行が「信用創造」をまったくしないとしても(1億円の預金で1億円だけの貸し出しをするのは「信用創造」ではない)、「利益」が投資や消費に使われていれば、名目GDPは増大するはずです。
(銀行の貸し出し残高は減少していますから、それが45兆円になっていなければ名目GDPは増大するはずです)
現状の日本で言えることは、「利益」だけではありませんが、使いたくてもないために使うことができない低中所得者にお金がより多く回るかたちになれば、名目GDPのマイナスは解消できるか大きく改善されます。(但し、失業や年金など将来不安の解消が同時に必要です)
今回のところは、「利益」も、ちゃんと供給活動への投資や国内での消費に使われるのなら問題はないというレベルの結論とさせていただきます。
(今後を考える重要なポイントは、「拡大的新規設備投資をすることで、生産性を上げ、かつ、就業者を減らさず、かつ、GDPが増大できる」という経済条件が日本で持続するのかということです。そのような条件はないとなれば、「利益」が国民経済の足を引っ張る可能性が高い。国際企業は「利益」を日本でなくとも中国などで投資や消費をすればいいという考えもあるようですが、さらに進むと、世界中どこにも「そのような条件はない」という状況が到来します。それにより、「利益」は他者から奪うだけのものであることが明瞭になります。このようなことを論理的に理解することが国民経済主義の要諦です)
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Re: あつしらさんは今の社会を変革するのを望んでいるのですか?より抜粋
「近代経済システム」における“労働者”は、すべての労働を己のものとしてできないのですから、利潤は他者の労働の一部ではありません。
すべての労働が経済主体である“資本家”のものなのです。
「近代経済システム」における“労働者”は、機械・原材料などと同等の“物”(感じ考え活動する“物”)でしかないのです。
(わかりやすく言えば、「所有はされない奴隷」なのです)
利潤を「他者の労働の一部」と認識したら、「近代経済システム」の活動規定論理を認識することができなくなります。
(「供給=需要」(「供給→需要」)という根源的な論理さえ見えなくなります)
私の「利潤」定義は、ある国民経済が外部共同体(別の国民経済)から供給活動に投じた貨幣的富を超えて得た貨幣的富を個別の経済主体が手にしたもの、というものです。
(外部共同体から経済取引を通じて奪った貨幣的富であることから、外部共同体から労働を奪ったものと言うことができます)
>まずはこの社会をどうしたいのですか?
>それをお聞きしたいのです。
どうしたいというより、現実の動きを規定している論理を理解することが出発点だと思っています。そして、その理解を基礎に、どうすべきかを議論したいと思っています。
私自身は、「支配―被支配関係構造」を崩せない段階では、経済活動は国民総体の安定的な生活の維持を絶対命題としながら生活の“余裕度”を高めることにあるという国民経済主義の実現をめざすべきだと思っています。
国民経済主義の価値観とそれを現実化するための合理的政策を考えていくなかで、ポスト・「近代」の方向性やイメージも浮かび上がってくると考えています。
ポスト・「近代」の世界は、「開かれた地域共同体」を基礎に、それを政治的に保証する“連合”が好ましい在り方だと思っています。
2004/6/15

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