イエスの言葉とされる「カエサルのものはカエサルに返せ」というのがありますよね。
これは利子取得はおろか、貨幣経済そのものを否定した言葉だと受けとめられます。
また、旧約聖書もキリスト教の一部ですから、出エジプト記や申命記にある言葉はキリスト教をも縛る言葉でもあることは明白です。
私が不思議に感じるのは、なぜ利子取得というか金融行為をそこまで特別視しなければならないのか、という点です。
金融とは何か、と考えて見ると、それは金のあるところからないところへ融通し、そのことに対する対価(利子)を得ることに他なりません。
カネとモノを入れ替えてみると、モノのあるところからないところへ融通し、そのことに対する対価(利益)を受ける、即ち商業そのものです。
つまり、金融の本質は商業と全く同質であると考えられるわけです。
もう少し突っ込んで考えて見ると、工業(産業)も営利を獲得するという意味で本質的には商業や金融業と変わらない事が分かります。
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誤読かも知れませんが、あっしらさんの議論を拝読すると、産業はモノを産み出すから価値がある、商業はそれを単に動かすだけだから価値が少ないがまだモノとの繋がりがあるだけマシ、金融は文字通りカネを動かすだけで何の価値も生んでいない、という素朴な経済観が反映されているような気がします。
イエス・キリストの時代ならともかく、現代社会では製・販・金融のどれも皆必須の機能であって、金融行為のみを問題視することはできないのではないかと思います。
金融を否定するなら、論理的には上述のように営利行為全体を否定するしかなくなり、自給自足経済とか、非貨幣経済を志向せざるを得なくなるのではないでしょうか。
ニュートラルさんへのレス:「誤読かも知れませんが」に応えます 投稿者 あっしら 日時 2002 年 10 月 17 日
>誤読かも知れませんが、あっしらさんの議論を拝読すると、産業はモノを産み出すから価値がある、商業はそれを単に動かすだけだから価値が少ないがまだモノとの繋がりがあるだけマシ、金融は文字通りカネを動かすだけで何の価値も生んでいない、という素朴な経済観が反映されているような気がします。
常にトータルな論理を書いているわけではないので、ある書き込みをお読みになられれば、そのように受け止められるかもしれないと思っています。
生存に必需の物をはじめとする利用価値がある財を生産することを重視していることは確かですが、それ以上に重視しているのは、そのような財を生み出す活動(力)です。
通貨は、そのような活動力の表象だと捉えています。言い換えれば、「労働価値」説です。
また、商業については財に対する支配権=所有権の移転行為だと思っています。物を動かすことは輸送活動だと考えており、生産活動と同等の活動力だと考えています。
(利用価値がある財は、利用する場に到達して始めて利用価値を発揮します)
さらに、利息取得は否定していますが、金融全般を否定しているわけではありません。
事業活動の資本に投資することは積極的に認めています。
今風に言えば、間接金融ではなく直接金融を尊重しているということになります。
(但し、既発株式の取引を投資だとは考えていません)
厖大な利益が得られるかも知れないが確定的な金融果実が得られるわけではなく、投資元金さえ消えてしまう可能性がある投資と、どうであれ利息を取り、債務が履行できない場合は担保契約を実行する貸し出しとは決定的な違いがあります。
>私が不思議に感じるのは、なぜ利子取得というか金融行為をそこまで特別視しなければならないのか、という点です。
金融とは何か、と考えて見ると、それは金のあるところからないところへ融通し、そのことに対する対価(利子)を得ることに他なりません。
カネとモノを入れ替えてみると、モノのあるところからないところへ融通し、そのことに対する対価(利益)を受ける、即ち商業そのものです。
つまり、金融の本質は商業と全く同質であると考えられるわけです。
もう少し突っ込んで考えて見ると、工業(産業)も営利を獲得するという意味で本質的には商業や金融業と変わらない事が分かります。
利息取得は経済社会に破壊的な影響を与えるので取り立てて否定していますが、利潤(通貨的蓄財)全体を否定しています。
(貸し出しについては、知識や智恵は使われていると思っていますが、“不労所得”という面でも否定しています)
否定というより、利潤が得られなくなるという経済論理を主張しています。
世界は、ようやくにして、通貨的“富”がゼロサムであることを実感する時代を迎えるのです。
貨幣経済社会は文字通り通貨を媒介とした社会的分業ですから、ゼロサムである通貨的“富”を誰かが多額に握りしめる状態が続けば、経済社会全体が低迷します。
獲得側であったために先進諸国ではこれまで自覚されなかった利潤(使われずにしまわれる通貨)が及ぼす経済社会への害悪を否応なく認識することになります。
また、「近代経済システム」は、産業も商業化し、産業も商業も、貸し出しを通じて金融(銀行)に支配される構造であることを説明しています。
お時間が許すのであれば、参考書き込みリストを添付しますので、ご参照いただければ幸いです。
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(1)「利潤なき経済社会」に関する書き込みリスト
『
【世界経済のゆくえ】「定常状態」あるいは「歴史段階的均衡」という経済状況』
『
【「近代」から一歩先を見据えて】 「利潤なき経済社会」に生きる 〈その1〉』
『
【「利潤なき経済社会」を生きる】 「利潤なき経済社会」とは − 「匿名希望」氏の問いに答えて − 〈その2〉』
『【
「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」の“経済論理” 〈その3〉』
『
【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」における市場と競争 − 「近代的市場」とは何か − 〈その4〉』
『
【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」における市場と競争 − 「近代的競争原理」とは何か − 〈その5〉』

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