>アメリカの政治家の方々なら是非ともラムズウェルト氏も加えて欲しいですね(笑)。実際にどんな方なのかは存じませんがあの人の顔も相当厭らしい。
ラムズフェルド氏の顔も相当厭らしいと思っていますが、おぞましさは感じていません。
彼は、理屈で悪をなしている感じがします。
あのチェイニー氏は、青年期の顔を見たらびっくりするはずです。(エリート臭さはありますが、まともな範囲に収まっています)
最近気になるのは、小泉首相がラムズフェルド氏よりも“爬虫類顔”になっていることです。
(小泉首相は、政策の是非を超えて、首相の座から引き摺り下ろさなければならないと思っています。私にはできることは高がしれていますが...)
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私流の最悪「悪魔崇拝者」:抽象的な概念に帰依したり、ひとを救済できるとか幸せにできると信じている人投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 02 日
>あっしらさんは彼らの精神的、歴史的な意味での起源が何処にあると考えているのしょうか?おそらくお金の存在が密接に係わっているのだろうとは想像できます。しかしどうもそれだけとも思えません。このほかに他民族やら風土やらの影響もあるのでしょうか。
起源は、ペルシアとメソポタミアに辿れると思っています。
そして、“彼ら”が“彼ら”になっていったのは、バビロニア・フェニキア・カルタゴ・イスラエルなどの滅亡により“彼ら”自身の大地(国家や共同体)を失い、他の国家や共同体に身を寄せるようになったことが契機だと思っています。
よその国家や共同体でより良く生きることの困難はそれなりに推察できます。
他の世界観や価値観を持っていたなら、同化の道を選択したはずです。
“彼ら”は、有する価値観や経済的能力から同化の道を選ばず、困難にめげることなく、よその国家や共同体を自分たちにとって都合がいいものに変容させるために智恵を磨き続けたわけです。
“彼ら”は閨閥というかたちで数を増やしていますが、数の増加は利の減少にもつながりますからそれほどではなく、世界における圧倒的な少数派です。
そのような圧倒的な少数派の価値観や論理が優勢であり続けているのは、“彼ら”が自分たちにとって都合がいいものに変容させるために磨き続けた智恵の成果として、被支配層に投げ掛けた(流布した)価値観や理論を“正論”として受け容れている人が多いからに過ぎません。
その一つが、抽象的な概念(民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といったもの)を素晴らしいものと賛美したり、ひとを救済できるとか幸せにできると信じている心性です。
抽象的な概念をそのまま善と考える人が多数派になることで、空虚な論がはびこり、空虚な言葉で騙される状況になっていきます。(善であると信じる言葉を使うことで、その内実を掘り下げることを怠る思考停止に陥る)
右翼的な政治運動家であれば、国家や民族という抽象概念に何かとてつもない価値があると感じ、それらの概念存在のために生身の人間を動員したり生身の人間が犠牲を厭わないことが善だと信じています。(識別子の役割は否定しない国旗に崇高な価値があると思うのも同種の心性)
「貨幣の怖さは「主−客意識」をも破壊する超越性」
左翼も、正義や平等を実現すれば、ひとを救済したり幸せにできると信じています。
(このあたりの心性は、宗教家にも共通する)
人がひとを救済したり幸せにすることはできないという根源的な話が見えていない。
ある人が自分の関与で救済や幸せを得たとしても、それは手助けした人の与り知らぬことで、救済や幸せは、ひとりひとりが自分で獲得するものだという理解さえない。(獲得は、物質的な話ではなく、精神的な話)
だから、自分たちの党派を支持すれば素晴らしい社会が到来すると恥ずかしげもなく訴えることができるわけです。
ごく少数派の“彼ら”よりも、抽象的な概念に帰依したり、ひとを救済できるとか幸せにできると信じている人たちの「悪魔崇拝性」のほうが危険だと考えています。
抽象的な概念に帰依したり、ひとを救済できるとか幸せにできると信じるようなエリート思想は、“彼ら”の価値観や世界観が被支配層向けに脚色されて“切り売り”されたものです。
具体的でリアルな「共同体」から抽象的で観念的な「国家社会」へ [オニオンさんへ]投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 05 日
>抽象的な概念(民主主義・自由・人道・正義・平等・国家)が大地に根ざした(自然的、歴史的な)共同体に悪影響を与えるとお考えなのですか?また与えるとしたらどのような形になるのか、以前の「主ー客構造」(の虚構性)の話に絡めつつ教えていただけたら幸いです。
ここ阿修羅でも“悪影響”を如実に窺い知ることができます。
民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった抽象的な概念が、それ自体として価値があるように崇められたり、国家や社会といったものがあたかも実体であるかのように取り扱われています。
それは、たとえば、アプリオリに「民主主義はすばらしい」と判断するような精神性です。
民主政は「近代」において相対的に望ましい政治体制だと思っていますが、それは、社会と国家が分離している現状の政治的統合形態として、また、我欲に囚われた支配層の横暴を微力でも抑制できる制度だからです。
「民主主義はすばらしい」と言えるのなら、「独裁政はすばらしい」とも言えます。
それこそ、哲人王が政治的統合の在り方を最終的に決定するほうが、政治的支配欲を持っていない多くの人々にとって格段に暮らしやすい社会になるということも推測できます。
哲人王が、人々から広く意見や政策提言を聞き、他者を害さないということを主要な基準として、ひとり一人ができるだけ自由に活動し楽しく平和に生きていける政策を選択(決定)し、その履行を公権力を使って保証するというものです。
(独裁政は決定権限の独裁であり、拘束力や強制力がない自由な意見表明や政策提言を認めるかどうかは別の話です)
民主主義は、人々が自分の利益になる政策を主張していると判断する政党に政策決定権を与えようとする動き(選挙)の結果として政権を取った政党が、政策を決定し、その履行を公権力を使って保証するというものです。
民主主義はこのようなものですから、自分と類似的な利害意識を持つ者たちが、違う利害意識を持つ者たちを害するかたちで利益を追求したり実現しても「悪」ではありません。
自分の利益になるという判断も刹那ないし短期の話であり、中長期では、自分に利になると思った政策が自分を害する政策になることもあります。
多数派を形成できるかどうかが問題であり、他者を害さないという前提はないわけですから、国策は、原理的に内実的な合理性は問われないことになります。
民主主義は、多数派が選択したということに価値や意義を見るもので、その代償として誤った政策が遂行されても仕方がないと割り切るものです。
(多数派は合理的判断をし少数派は不合理な判断をするという考えは、思い込みや願望を超えるものではありません)
民主主義一つをとってみても、常識化しているような「普遍的善」でもなければ「すばらしいもの」とも言えないことがわかります。
この種の捉え返しや“反省”をしないまま、民主主義・自由・人道・正義・平等といった概念(観念)を世界支配層の尻馬に乗って称揚する態度を「カス」だと思っています。
民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった抽象的な概念が人々の意識に充満するのも、「近代」が基礎とする生存様式の在り方に照らせば当然と言えます。
前近代に生きた多くの人たちは、家族・共同体という目に見え言葉を交わす人たちとの関係性のなかで暮らし、歩いていける範囲の自然に働き掛けることで生存を維持していました。
このような生活形態では、民主主義・自由・人道・正義・平等は概念としてではなく、「オマエが勝手に共同農作業のスケジュールを決めるなよ」とか「オレんちの晩飯のメニューに口出しするなよ」とか「病気や怪我そして災害は誰にも襲ってくるものだから、それらで困っている人は助けたほうがいい(自分もそういうときは助けて欲しい)」とか「治水工事はみんなが恩恵を受けるのだから、田んぼの広さに応じて各家は働き手を出すべきだ」といった具体的な主張や判断であったはずです。
「近代」が確立し都市が拡大していくと、隣り合って生活しているひと同士でさえ生活手段を得る方法が違っているという状況も生まれます。密接な関係を持つ相手は、家族とお金を稼ぐために遠くからバラバラに寄り合う職場という“二重構造”が拡大します。
地理的に隣接しているけれど、その人と手を携えて何かをすることで生活がよくなるということが限定的なものになり、それさえも、お互いが話し合ってどうこうするというより、税金を納めて公的機関にやってもらったほうが合理的だと判断するようになります。
(ここから、国家(機構)がいろいろなことを為すべきだという意識は一直線です)
誰が造ったものなかを知らない財を数多く消費したり、誰が買うかも知らない財を生産して生きているのですから、遠く離れて生活している人たちとも関わりがあることやそのような人たちとある部分では共通利益があり別の部分では利害対立があることもなんとなくわかります。
このような貨幣を媒介とした他者関係性の抽象化と公的学校教育やメディアが、人々に、抽象的な概念(観念)による世界理解を要請(醸成)していることは確かです。
知らない人も多いけれど利害基盤が共通していると思われる人たちを、同じ“日本人”として意識するようになります。(そこから、国家や民族という抽象的存在に価値を見出すようになるのはほんのわずかな歩みです)
交易や往来が増加すれば、世界中の人たちを同じ“人間”として意識するようにもなります。(そこから、「世界は一家、人類皆兄弟」という観念やコスモポリタニズムまでもさほど距離はありません)
自然的歴史的な共同体は、このようにして、抽象的な関係性の総和としての「国家社会」や「世界」になっていきます。
それをリアルに支えているのが、何でも買える何でもできるお金という存在です。
抽象的な存在であるお金が人々の生の具体的な生活を維持する手段になっているのですから、人々が抽象的な観念に吸い寄せられるのは不思議なことではありません。
このような変化が、共同体(「国家社会」・「世界」)に関わる物事の判断から、具体的なものをボロボロと捨象させてしまうようになります。
そして、あまり内実を考えたこともない民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった概念(言葉)に、何か崇高な価値があったり問題解決の鍵があるかのような錯誤にも陥ります。
具体的でリアルな関係は家族や友人そして職場に限られ、学校や職場の関係性も利害対立的なもので、消費共同体となった家族においてもお金の配分をめぐる利害対立が忍び込んでいます。
(利害対立的関係性は「主−客構造」的認識につながるものです)

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